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第2章 はな六の独立宣言⑧

 アーケード街の入り口で降ろしてもらい、そんなことを考えながらはな六は家までの道を歩いた。深夜の商店街はコンビニが一店営業しているだけで、全く人通りはなく静かだ。裏通りの細い道だって、たまに足下をよく肥え太ったドブネズミが通りすぎるくらいで、危険などない。この界隈をこんな時間に歩く人なんか誰もいないので、変質者だって待ち伏せをする甲斐はないというもの。  アパート周りを囲む低い塀が闇の中に見えてきた。車の走行音は遠い。サイトウは今夜は“夜回り”という名の迷惑行為はして来ないことだろう。夕方に電話で話したし、マサユキからもよく言い聞かせてもらったからだ。  アパートの戸口を照す蛍光灯はもう寿命が近いらしくチカチカと点滅している。はな六は部屋の鍵をポケットから取り出して、鍵穴に挿そうとしていた。我が城がもう目前で安心したのか、お飾りがうずいている。早くバスルームに籠って、客からもらった玩具で発散したい。けれども蛍光灯の点滅のせいで、鍵穴がよく見えない。  やっとドアが開いた。はな六はピタリと動きを止めた。ズボンの中ではピンと立ったお飾りの先から粘液がどっと溢れて下着を濡らした。背後から伸びた手に口を塞がれ、もう一本の腕に胴をしっかりと締めつけられている。 「動くな」  耳元に息を吹き掛けるように命じられた。サイトウではない。背後から砂利を踏む音がし、手際も鮮やかに拘束された時まではな六はそれをサイトウの悪戯だと思っていた。手際の良さをサイトウに似ていると思って油断したのかもしれないし、愚かなこのボディ(レッカ・レッカ)が鋭敏にセックスの予感を察知してわざと警戒心をほどいたのかとも思える。 「騒いだら殺す」  ドアの中に押し込まれ、土足のまま短い廊下を通り、六畳間の絨毯敷きに前のめりに押し倒された。  這いつくばって逃げようとした後ろ髪を犯人は掴み、はな六の頭を持ち上げて顔面をサッシのところの段差に打ち付けた。そこはサイトウがくれた長めのカーテンが覆っていたが、犯人の力は強く、何度も何度もはな六の頭を角めがけて叩きつけたことによって、鼻の骨はグシャリと嫌な音を立てて潰れた。顔中に熱い液体が溢れ飛び散る。鼻の中の水管が破れて体内を循環する温水が吹き出したのだ。 「やめて! お願い、頭はやめてください! 頭がおかしくなっちゃう!」  はな六は懇願した。鼻からぼたぼたと溢れてくる温水が口に入って喋りづらいばかりか、このままでは溺れてしまいそうだ。 「助けてぇ、サイトウ!」  目の前の布地を両手で引っ張ると、頭上からビリビリバキッと音がして、重たい布と何か棒のようなものが降ってきた。カーテンがレールごと外れ落ちてしまったか。前がすっかり見えなくなる。  腰から下が冷たい空気に晒された。下着まですっかり剥がされてしまい、露出されたお飾りはこんな事態だというのにピンとして、先端が下腹の肌を打つほどに反り上がっていた。後孔に指か何かが侵入してきた。 「わんわっ、やめてぇ!」  大きくかき回されて、じゅぶじゅぶと音をたてながら粘液が後孔から出てきた。何でこんな悪さをされているのに感じてしまうのか。 「ぎゃああああ!!」  これまで二十年の人生で一度も聴いたことのないような悲鳴がよりによって自分の喉から出るとは。もう自分が何を叫んでいるのかわからない。何をどうされているのかわからない。こんな時に限って、騒音にやたら敏感な隣人はなぜ何も言って来ないのかとか、サイトウは“夜回り”をしてくれていないのかとか、そんな呪ってもしかたのないことを呪いまくっている自分がいる。 『落ち着いて、はな六。落ち着いて』 「てやんでぇー! これが落ち着いていられるかバッキャロー!!」  こんな罵り言葉を発するなんていつ以来か。レッカ・レッカ(このボディ)は舌っ足らずで口の回りが非常に悪いので、少なくとも第二の人生を始めてからは初である。 『おれが代わってあげるよ』  今にも舌がもつれそうなトロい口調の囁きが耳のすぐ側に聴こえた。     ふと気づけばはな六はどこか知らない建物の中にいた。茶色の壁に挟まれた薄暗くて細い廊下にクマともタヌキともつかないぽんぽこりんのはな六は立っている。両サイドの壁には等間隔に重そうなドアが整然と並んでおり、照明としては火の灯った蝋燭を挿した燭台が、やはりドアとドアの間、等間隔に据え付けられていた。前を向いても後ろを向いても同じ景色で、廊下の先は果てしない。 (VR空間のようですが……)  いや、おそらくこれはレッカ・レッカの心象風景だろうと、はな六は直感した。もしかすると、頭を打った衝撃でレッカ・レッカの脳がバグを起こしてしまったのかもしれない。  風が吹いた訳でもないのに、ドアの全てが一斉に、小さくかカチャリと音を立てて数センチ開いた。どのドアもまるではな六にどうぞ入ってくださいと手招きしているようだ。はな六は「ふん」と鼻を鳴らすと、伸縮自在の両の手を後ろに組んで、両サイドのドアを手前の方から順繰りに見ていった。  やはり、一室一室に仕舞われていたのはレッカ・レッカに遺された記憶の数々だった。本来、ボディに前のユーザーの記憶が残っていたとしても、後のユーザーの魂にアクセス権限はないはず。なのにはな六が閲覧出来てしまっているのはレッカ・レッカの脳が先ほどの暴力によって壊されてしまったからなのだろうか。 (まさかこれでレッカ・レッカが廃棄になってしまうのではないだろうなぁ)  それははな六にとってはかなり危機的状況のはずだが、どうにも本気で焦ることが出来ないのは、この空間を満たした雰囲気の影響か。 (それにしても、レッカ・レッカ……この人は本当にセックスばかりして生きてきたのだなあ)  どの部屋の覗いても、そこでレッカ・レッカはあられもない姿でよがっているのだった。ある部屋では数名の男達に取り囲まれ、ズボンだけ下ろされた情けない格好で後ろから突かれながら別の男の一物をしゃぶっていた。  また別の部屋では車椅子の老人の目の前に跪き、膝掛けを少しずらした所に顔を埋めており、やはり背後からはまた別の男に突き上げられている。どうやら想像を絶する惨めな人生を送っていたらしい。  また別の部屋。どこか高いビルの中、暗闇と室内とを隔てる分厚い窓ガラスに両手を着かされて犯されている。ガラスは鏡のようにレッカ・レッカの姿を映しているが……髪は長くて色は明るい。はな六は短く切る前の自分の髪の傷んだ毛先を思い出す。あの毛羽だった毛先の部分の色こそがレッカ・レッカの本来の髪色だったのかもしれない。  そしてまた別の部屋では、珍しいことにレッカ・レッカはセックスをしてはおらず、足下にまとわりついてくる幼い女の子と子猫の相手をした。レッカ・レッカの肘にぶら下がろうとしてくる女の子は、まるでレッカ・レッカをそのまま小さくしたような顔立ちにお下げ髪で、くるくるとよく動く黒目がちな目が可愛らしかった。子猫は真っ白いお餅のようで、お腹を空かせて我慢できずにレッカ・レッカのスラックスの脛をよじ登ってくる。床に置いたお皿にキャットフードの缶詰めの中身を移すと、すかさずお皿に顔を突っ込んだ子猫の背を、女の子が乱暴に撫でようとするのでレッカ・レッカは嗜めた。  だが急に場面は変わり、女の子は半開きのドアの所で、大きな目を零れ落ちそうなほどに見開き、表情の失せた顔でこちらを見ていた。  後孔の痺れが後ろ髪を引っ張られた痛みに打ち消される。首が反り、女の子の方へと顔を真っ直ぐ向けざるを得ない。視界が溢れ出る涙にぼやける。これまでどんな目に合わされても泣かなかったというのに……。 「行こう」  聞き馴染んだ少年の声に、ぽんぽこりんのはな六は我に返り横を見上げた。はな六のすぐ脇に立つ女の子の背後には、頭ひとつぶん以上背の大きな男の子がいて、女の子の両肩に手を置き、黒縁の眼鏡の奥、しゅっと細い一重瞼の間から思慮深そうな大きな瞳でおずおずと物言いたげに室内のレッカ・レッカを見た。子供時代のハン・ジュンソ。ジュンソは女の子を抱えて後退り、ドアを閉めた。  また別の部屋では……この部屋は今まで見た中で一番狭っ苦しい……狭いがどこかの王公貴族の部屋を模したような、暗い赤と鈍い金色で飾りたてられた部屋で、部屋の狭さに不釣り合いな大きな天蓋つきのベッドの上に、レッカ・レッカは仰向けに組み敷かれていた。パシャパシャと跳ねるような水音に子猫が親に甘えるような嬌声が重なる。その音はこの部屋ではないどこか遠い所から聴こえる。一心不乱に腰を振る痩せた男の下でレッカ・レッカは無言だった。  声を発しない口の中にぬるりと舌が這入ってくる。熱い舌が口腔内を、まるで起動スイッチを探すように動き回り、しばらくすると果たしてレッカ・レッカは「あー」と末期の深い嘆息のような呻き声を上げて目を覚ました。血のように深い赤色の天井。 「目ぇ覚めたんきゃ?」  この人は、とはな六は思う。頭の両脇に置かれた手に大きくて熱い手が重なり、ぎゅっと握って来たのではな六もぎゅっと握り返した。  男の痩せた背中には肩甲骨が、不恰好に生えかけているのか途中からもがれたのか、とにかく羽みたいに浮いているはず。それを触りたくて男の背中に腕を回そうとする。  はな六はそっとその部屋のドアを閉じて、小柄な背中をそのドアに預け、爪先をもじもじと動かした。

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