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第2章 はな六の独立宣言⑨
遠くにユユの泣き声を聴いた気がするし、ナカヤマやムイ、そしてマサユキの声も聴いたような気がするが、ごぉーごぉーと地の底から揺るがすような震動に掻き消され、レッカ・レッカの世界も跡形もなく崩れ去り、はな六は奈落の底へと墜ちていった。
「んごぉー、ごあぁー、ぐかーっ」
近所中に響き渡るほどのイビキが充満する室内で、はな六は目を覚ました。
(んー、サイトウ……)
聴こえるのは確かにサイトウのイビキだが、天井はサイトウの部屋の黄色く変色した板張りの天井ではなかった。身体中が痺れている。この痺れが何であるかはわかる。麻酔針だ。手足はまるで感覚がなく動かせないが、首だけは多少自由になるようだ。身体に厚い布団が掛けられているのが見える。首を少し右に傾けると、右手が布団からはみ出ていて、その手にすがり付くようにしてサイトウが寝ていた。
(うえぇ……)
はな六の掌はサイトウのヨダレに濡れて、てらてらと輝いていた。
(サイトウ、ねえサイトウ。おいこら起きろってば!)
声に出そうにも、喉からはヒィヒィと掠れた音が出てくるだけだった。ため息をついて周囲を見回す。壁紙の模様に見覚えがある。どうやらここはかかりつけの整備工場 のようだ。
(何故おれはこんな所にいるのだろう)
はな六は眠りに落ちる前の記憶を手繰った。そうだ、帰宅した際に何者かに襲われたのだ。部屋に押し込まれ、乱暴をされて……。次に思い出したのは、サイトウの恐ろしい顔だった。サイトウははな六の見たことのない顔……何が恐ろしいって、全く表情がないのに、目ばかりがぎらぎらと輝いていたのだ……そんな顔で、サイトウははな六の上から暴漢を蹴り飛ばし、命乞いをする男を無言で蹴り続けた。
(殺してしまう!)
止めなければ! 咄嗟に思った。おれのせいでサイトウを人殺しにしてしまう! それだけはダメだ! と。
今思えば、自分のせいだなんて思う必要などどこにもない。ひとの家に押し入って暴行を働いた変質者の身から出た錆というやつだし、サイトウはサイトウで、何でそこにいたのか? という。それは夜な夜なサイトウがはな六をストーキングしていたからに他ならない。変態同士のぶつかり合いを、どうしてはな六が間に入って止めなければならないのか。だがその時、はな六は必死だった。必死でサイトウの脚にすがり付いて言った。
「あーん、サイトウ。痛いよぉ、お願い、おれの側にいてぇ」
今こんなにも喉が酷いことになっているくらいなので、その時ちゃんと声に出して言えたのかは謎だが、はな六は言おうとした。いや、もしかするとそう言おうとしたのははな六ではなくレッカ・レッカだったかもしれない。
(何故そんな泣き言を? 人が人を殺そうとしている時に)
なにせはな六には到底理解不能な発言だったのだ。
だが、サイトウはそれでピタリと暴漢を蹴るのを止めた。そしてはな六の側に膝を着いた。
「おぉ、はな六よぉ。こんなにされちまって可哀想に……。痛ぇよなぁ。すぐに病院に連れてってやるからな」
はな六は顎を上げてサイトウにキスをねだった。サイトウは、これまたはな六の見たことのない、今にも泣き出しそうな顔で、はな六の唇にキスをした。
(サイトウには人の心がない)
はな六はサイトウがいぎたなくヨダレを垂らしている様を見ながら思った。こういう顔をしている時はまさに人間という感じだが、特定のコマンドを打ち込まれれば即座に特定の反応をする、機械みたいな奴だと思えるような瞬間がサイトウにはある。そして、このボディ はコマンドを熟知しているようだ。「喧嘩はやめて!」よりもサイトウによく通じるコマンドをレッカ・レッカが知っていたおかげで、サイトウは人を殺さずに済んだ。
(サイトウ)
はな六は語りかけたが、やはり喉はヒィと情けない音しか出さなかった。
カーテンが少し開いた。はな六は眩しくて目を細めた。
「あらら、サイトウ君ったら、すっかり眠りこけちゃってますねぇ」
マサユキだ。はな六は喋ろうとしたが、ヒイヒイしか言えず、マサユキは無理に喋らなくて良いですよとでもいうように、手で制した。
「しょうがないですねぇ。君は本当に、六花ちゃんのことを深く愛しているのですね」
それが“愛”だなんて。ものは言い様とはまさにこのこと。サイトウのしていたことは結果的にははな六の命を助けたが、それはそれでストーカー行為という名の犯罪であるのに。胸がスッと冷えたような気がした。身体は厚い布団に覆われているし、麻酔針で全身の感覚が麻痺されているにも拘わらず。
(この人、どんだけサイトウに甘いんだ……)
「ヒィ」
はな六は抗議の声を上げたつもりだったが、マサユキは「あらら」とはな六の右手を気にした。
「これじゃあ手が重たいですよねぇ」
マサユキはサイトウの頭の下からはな六の手を引きずり出そうと悪戦苦闘を始めた。しばらくしてマサユキははな六の右手を引き出すことに成功したが、サイトウの手ははな六の手をしっかり握ったままだった。
「デュフ、サイトウ君、六花ちゃんのことを君は片時も手離したくないんですね」
マサユキはぼそぼそと語った。
「サイトウ君には二年前からお付き合いしている彼女さんがいると、僕は聞いていました。だからサイトウ君が六花ちゃんを手離すのは普通のことだと思いましたし、サイトウ君が彼女さんとの時間を作るために、僕は協力しようと思ったんですね。ですが、サイトウ君の彼女さんというのは、六花ちゃんのことだった、という訳なのです」
(おれはサイトウの“彼女さん”ではないです!)
はな六は抗議しようとしたが、やはり喉はヒイとしか言わない。はな六が言おうとしていることも無視して、マサユキは話を続けた。部屋にはサイトウの騒々しいイビキが響いているものの、はな六の鋭敏な聴覚はマサユキの一言一句を全て拾った。
「そうだったんですねぇ、サイトウ君。僕、ずっと君は僕とは違って、女の子しかイケないのかと思っていました。そうかぁ、君は、相手が男の子でも全然オーケーだったんですねぇ。男の子でも、可愛くてエチエチな子なら……。僕は君の三十年来の親友を自称しておきながら、一体、君の何を見ていたんでしょうねぇ。結局僕は、自分に都合のいいように、色眼鏡をかけて、君を見ていたに過ぎないんでしょうねぇ」
(あっ、なんだ。おれに話してるんじゃなかったのか)
「ねぇ、六花ちゃん」
マサユキが今度ははな六に語りかけてきたので、はな六はマサユキの逆光でよく見えない顔を目を細めたまま見上げた。結局この人もはな六を人として見ていないのではないかという気がしてくる。お人形に語りかけるように、マサユキははな六に語りかけようとしている。クマともタヌキともつかないぽんぽこりんのアンドロイドだった頃、しばしば人間がはな六に語りかけるときにそうしていたように。
「君はサイトウ君の側にいるべきです。いや、側にいてあげてください。今回のことで君もお気づきでしょうが、サイトウ君は淋しいと不善を成してしまうタイプの人なんです」
(は?)
完全にはな六の人権を無視した発言だった。サイトウのためにはな六に犠牲になれとマサユキは言っている。ヒィヒィ声しか出ないとは分かっていても言わずにはいられない! マサユキ、あなたには幻滅した、と……。
その時、複数の足音がこの部屋に向かってくるのが聴こえた。ほどなくして部屋のドアがノックされ、数人の看護師が入室してきた。
「お話し中のところ失礼します。まもなく手術のお時間です」
「あらら、お邪魔ですね、すいませんすぐにどきます。サイトウ君、起きてください。六花ちゃんの手術のお時間です」
マサユキがサイトウの背中を一揺すりすると、サイトウは弾かれたように飛び起きて、ヨダレをじゅるりとすすった。
「すんません、うちのはな六をよろしくお願いします」
サイトウは寝癖のついた鳥の巣頭をボリボリ掻きつつ、看護師の一団に深々と頭を下げた。
看護師達がベッドの周りをぞろぞろと取り囲む。はな六の身体に着けられた計器や麻酔装置を動かしたり、布団を剥いだりと忙しく立ち回る。マサユキとサイトウが退いて、ベッドの脇にストレッチャーが横付けられ、
「どうしましょう」
「シーツごとこっちにスライドして移しましょうか」
などと看護師達は話しあった。サイトウが、
「手伝います」
と申し出、マサユキも加わって、人々ははな六を載せたシーツの端を持って「せーの!」ではな六をストレッチャーに乗せた。ベルトがかけられ、あれよあれよという間にストレッチャーが動き出し、付き添ってくるサイトウに「頑張れよ」と励まされながらはな六は手術室に運び込まれていった。手術中は考える暇も何もない。麻酔針で夢さえ見られない深い眠りに落とされた。
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