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第2章 はな六の独立宣言⑩

 気がつくとはな六は真っ白いシーツに埋もれるように寝ていた。むくりと身体を起こす。水色の、着物のようなバスローブのような薄い寝間着を纏っている。室内をきょろきょろ見渡してみた。狭い室内にははな六のベッドを含めて四床あった。はな六の正面のベッドと右手のベッド周りにめぐらされたカーテンが、部屋をより狭く感じさせる。 「お目覚めですか?」  はな六が起きていることに気付いて、看護師が近付いて来た。看護師はてきぱきとした動作ではな六のベッド周りのカーテンを閉め、はな六を仰向けにさせると布団を剥ぎ、寝間着の前を開かせ、はな六の身体のあちこちに着いていた計器の端子や麻酔針などを取り外した。それらを片付けた後、看護師はベッドの端に畳まれた衣服を置いた。 「こちらが着替えです。スリッパはこちらに用意してありますのでご利用ください。これからレイ先生による診察と術後の説明がございます。お支度が整いましたらこちらのナースコールでお呼びください」  看護師はさっとカーテンの隙間に消えた。はな六はもそもそと寝間着を脱ぎ、身体をざっと見渡し点検してみた。鼻全体に何かが貼られているが鼻梁はもう潰れてはいない。手足はいつも通り痛く軋むがちゃんと動く。身体中至るところの皮膚に、傷をパテで埋めた跡が這うように残っていた。お飾りにさえ痛々しい傷痕があった。下腹部にはとりわけ大きな切開跡がある。もしかすると、寝ている間に腹の中のパーツを新品に交換されたのかもしれない。はな六は小さなお飾りを指でそっとなぞった。お飾りは脚の間に力なくくったりと垂れ下がったままだ。下着に脚を通し、靴下とズボンを履き、上着を着込む。 「おーい、はな六。起きてるか?」 「ムッちゃん」  スリッパを履こうと脚を床に下ろした時、ムイが病室に入って来た。ムイはズボンのポケットに両手を突っ込み、スリッパを床に擦りながらベッドに近付いてくる。 「マサユキが、お前を一人で帰らすのは心配だってよ。だが俺しか暇な奴がいないかったんで俺が来た」  ムイはベッドの周囲をキョロキョロと見る。 「荷物はこれだけか」  と、ベッド脇のスツールの上に置かれたトートバッグを拾い上げる。マサユキの店で皆に貸し与えられる、仕事に必要なものを持ち歩くためのバッグだ。はな六は自分で持つと言ったが 、ムイはいいと断ってバッグを肩にかけた。 「このあともう帰っちゃっていい感じか?」 「ん? あぁ、先生の話聴くんだった」  はな六は枕元のボタンを押した。すぐに看護師が駆けつけてきて、はな六とムイを診察室の前まで案内した。  二十分ほど待たされてから、はな六はレイ医師の話を聴いた。しかし彼女の話の半分ほどは耳の右から入って左の耳へと抜けていくようで、はな六は何度も首を傾げた。診察室を出る時、 「ま、お前がまじめに聴いてなかった部分は俺が聴いてたから大丈夫だ」  ムイがはな六を憐れむようにちらりと見て言った。  外はよく晴れていて、空気はぽかぽかと暖かかった。はな六が寝ている間に三日が経っており、暦は師走に突入していた。 「アンドロイドっていいよな。あんな大怪我したって、たった三日でけろりと何事もなかったように復活するんだもんな」 「うん、まぁ……お金は死ぬほどかかるけどね……」  しかも、今回の入院手術では皮膚の復元まではしなかったので、仕事復帰をするには更に数回の手術を受けて、皮膚に残った傷痕を消さなければならない。その費用は身体内部のパーツを交換するよりもずっと高くつくという。 「でも人間ならどんなに金払っても完全には元通りにならないんだぞ。身体も心も。いいじゃん、お前は古いタイプのアンドロイドだから……が……に……てて」 「え?」  皮膚の治療にかかる費用に気を取られていたせいか、最後の方がよく聴こえなかった。 「なんだって?」 「だから、古いアンドロイドは人g……を……m……iように………kがk……r……ら」 「ごめん、よく聴こえない」  別に町の喧騒が煩すぎるからでもなく、風が吹いている訳でもない。なのにムイの言葉の一部にノイズが被さって、どうしても聞き取れないのだ。ムイはまた、さっき診察室を出たときのように、はな六を憐れみの目で見た。 「なるほど。タブーって訳ね」 「どういうこと?」 「説明しても無駄。百万回言ってもお前の脳には響かねぇ。……で、これからどうするんだ? 真っ直ぐ保護者(サイトウ)の所に帰る? それともどっか寄り道でもすんの?」  はな六は首をぶるぶると横に振った。 「サイトウのとこはやだ。どうせあいつ、セックスしたくておれが帰るのを手ぐすねひいて待ってるもん」 「お前、天下の公道でそんな事言うなよ恥ずかしい。じゃあどうすんのさ」 「マサユキの所がいい」 「へいへい」 「マサユキは部屋にいる?」 「居んじゃねーの。この時間ならほぼ寝てるだろうな」 「そうか……。行ったら迷惑になるかな?」 「いいんじゃね、別に。つか実際、お前サイトウん家が嫌なら他に行くとこねえんだろ」 「んー」 「じゃあ決まり。マサユキのとこに行くぞ」 「うん」  地下鉄を乗り継ぎ、マサユキの事務所のあるマンションへと向かった。道中、ムイははな六が暴行を受けた夜のあらましを話した。 「お前からのSOSを受けて、まず一番近くにいたナカヤマと俺が直行して、そしたら既にサイトウが犯人を制圧してただろ。その後マサユキとユユが遅れてきて。で、ユユとサイトウでお前を病院まで運んだだろ。その間にマサユキとナカヤマが犯人を土下座させて、俺をはな六だと思って謝れって説教してさ。なかなかの見ものだったぞ。お前は永久に見なくていいけど」  マンションの駐車場まで来るとムイはさっさと帰ってしまったので、はな六は一人で建物に入り、エレベーターに乗った。八階で降り、廊下を左手に。怪しいマッサージの看板の立てられた部屋の一つ手前が、マサユキの事務所兼住居だ。玄関チャイムを鳴らしたが返事はなく、少し間をおいてもう一度ボタンを押すと、ドアが開いた。マサユキが眠そうに目を擦りながらのっそりと立っている。 「ごめん、起こしちゃって」 「いいですよ。丁度何か食べようと思って起きたところですから。それより、退院できて良かったですね」  はな六は頷き、玄関に入って靴を脱いだ。  台所に立つマサユキの手元を、はな六は後ろからひょっこり覗き込んでいた。三口あるコンロの手前の一つに水を張った片手鍋が載せられ、その隣のフライパンでたまごとご飯が炒められている。マサユキは器用にフライパンを振り、お玉でかき混ぜた。チャーハンのもとをふりかけ、そして凍ったままのエビをいくつか投入する。  はな六は鼻をひくつかせた。食べ物のいい匂い。いい匂いの食べ物は美味しい。そう理解は出来るものの、はな六は食事を摂れないタイプのアンドロイドなので、匂いに食欲をそそられることはもちろんない。  あっという間にチャーハンが出来上がり、マサユキはそれを大皿に盛るとお盆に置いた。そして、同時進行で作ったワカメスープ、それから袋から出して皿によそっただけのカットサラダをつけた。お盆を持って居間の炬燵に移動する。 「いただきます」  マサユキが手を合わせるのを、はな六は向かいに座ってただ見つめた。はな六の目の前にはマサユキが白湯を注いでくれた湯呑み。  マサユキははな六に構わず黙々とチャーハンを食べた。はな六は時々白湯を口に含んだ。サイトウなら、こうして食事中にはな六が目の前にただ座っているだけでいるのを嫌がる。そして、その腹は物を食えるように改造出来たりはしないのか? と言う。客にもそういう人がいる。人は食べる時に、目の前にいる人が何も食べないことを、嫌がる。  はな六は、クマともタヌキともつかないぽんぽこりんだった時も、人間の食事を摂ることが出来ないアンドロイドだった。  二十年ほど前、こども囲碁大会に出場したときのことをはな六は思い出した。囲碁大会は大抵昼食時をまたぐために、お昼に宅配弁当が出るものだった。人間の子供達は、付き添いの保護者や仲のいい友人達と、あるいは同じ塾の仲間達と寄り集まって弁当を食べた。何も食べないはな六は、一人だけ、離れたテーブルで棋譜並べをしたり詰碁を解いたりしていた。  はな六はふと顔を上げた。そしてはな六以外にももう一人、皆から離れた所に座っている子供がいることに気付いた。ハン・ジュンソだ。彼のテーブルには他の子供達が食べているものとは違う、華やかな色の布に包まれた弁当が、包みをほどかれもせずに置かれていた。ジュンソは弁当から顔をそむけ、ブラインドに閉ざされた窓の方を見ていた。  はな六は席を立ち、ジュンソの正面にまわりこみ、向かいの席によじ登った。 「ねぇ、食べないの?」  ジュンソははな六をちらりと見、少しだけ頭を動かして頷いた。 「じゃあ、私と打ちましょう」  と、テーブルの中央に二卓ぶんまとめて置かれていた囲碁セットを二人の間に移動して、碁笥を碁盤の上からおろした。はな六は当然のように白を持ち、ジュンソに黒石の入った碁笥を渡した。はな六の方が少し先輩だったからだ。  ジュンソはちょっと不満そうにしていたが、 「互先でいい?」  と言った。

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