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第3章 はな六のふぜんなクリスマス③
「こうして、親指と人差し指で挟んで取り出すだろう? それで、持ち上げる間に、人差し指の爪の上に回し乗せて、中指で押えて」
パチッ。
薄い碁盤はプロの使う碁盤ほど上等な音はしなかったが、それでもはな六の脳髄を痺れさせるには十分だった。
「もう一回して!」
「え? いいよ」
パチッ。
はな六は頬が紅潮するのを感じ、声にならない声を出した。
「……っ! も、もう一回!」
「そうか、向かい合っていると分かりづらいんだね?」
ジュンソはテーブルの向こう側からはな六の方へ移動してきて、はな六の背を抱えるように腰を下ろした。
「よく見ていて」
親指と人差し指で石をつまみ、親指を少し伸ばし、人差し指は丸め、引き寄せられた石を軽く中指が押えると、石がくるりと回りながら人差し指の爪に乗る。そうやって石を挟んだ手は、水面に降下する白鳥のように優雅に石を碁盤に打ちつけた。
パチッ!
はな六は両手を握り締め、首を小刻みに震わせた。
「じゃあ、次は六花の番だ」
「うん!」
はな六は黒石の詰まった碁笥に指を入れた。親指と人差し指で石をつまみ上げる……と、はな六の指はたちまち左右にぶるぶると震え出した。指先を使って何かしようとすれば、いつもこうだ。苦労して中指で石を押えようとすると、黒石はつるりと指の間から逃げていった。
「あれっ……あれっ……おかしいなぁ?」
はな六の悪戦苦闘を、ジュンソは黙って見ていた。
「おかしいなぁ、全然っ……石が、逃げてっちゃう……捕まえ、られない」
はな六は無理矢理笑った。目からじんわりと涙が溢れそうだった。
「もしかして、何かの後遺症かな?」
ジュンソは穏やかに言った。
「う、うん。ちょっとね、昔、手を怪我しちゃって」
咄嗟に嘘を吐き、はな六はえへへと笑って、両手をテーブルの下に引っ込めた。指先に力を入れてから、右手はずっと震え続けていた。その手首を左手でそっと撫で擦り、宥めようとした。
「そうか。手に負担をかけるのは良くない。こうして親指と人差し指で、そのまま置けばいいよ」
コトリと石が碁盤に置かれた。
(なさけない、けど、仕方ない)
はな六は大人しくジュンソを真似て石を盤上に置いた。
『ね、簡単でしょ?』
二十年前のあの日、はな六はそう言って水平に挙げた両腕を細波のようにくねくねと揺らした。向かいの席で、ジュンソは笹の葉のような形の眉をくしゃっと寄せて碁盤を見、そして顔を上げてはな六の方を不安そうな目でじっと見た。
囲碁のことはサッパリ忘れてしまったというのに、『はな六こども囲碁教室』での些細な出来事は妙に覚えている。
(だからいけないのかな……)
ジュンソに先に上がってもらい、はな六は浴室に残って後孔にたっぷりとローションを仕込んだ。どうもジュンソ相手だと調子が狂ってしまう。数時間前にハラダとプレイした時は後ろもお飾りも粘液をしとどに溢れさせたというのに、今は後孔はカラカラに乾上がってそのままでは使い物にならず、お飾りは脚の間の茂みに隠れてしまってまるで恥ずかしがり屋の“あんまん”みたいだ。
洗面台の鏡に映る表情は、『はな六こども囲碁教室』に家政婦さんに伴われて初めて訪れたときのジュンソのようにおどおどして頼りない。
借りたぶかぶかの部屋着を着て、照明の薄暗く落とされた中を寝室まで歩いていくと、途中、物陰に金色の目玉が四つ、まん丸に見開かれていた。お利口さんなにくまんとあんまんは、はな六が今から何をしに行こうとしているのか知っているのかもしれない。
二匹の猫達の母親“蒸しパン”も利口だった。ジュンソが拾い、はな六が寝ずの番で育てた仔猫の蒸しパン。その子らから化けでも見るような目でじっと見られると、いたたまれない気持ちになってしまう。
「今夜は俺にリードさせて。この間は、俺ばかり気持ちよくさせてもらったから」
ジュンソははな六の手を引き、彼の膝の上にまたがらせた。はな六の上着を鎖骨の上までたくしあげ、胸にちゅっと口付ける。
始まるまではどうなることか心配だったが、はな六の腹の中はジュンソの物を呑み込むとちゃんと反応し、お飾りをピンと勃たせた。
シーツの上に俯せにさせられ、背後からゆっくりと突かれる。ジュンソははな六のうなじの、サイトウが悪戯でつけた歯形の辺りを、猫が毛繕いをするときのように丹念に舐めた。ひと度射精してしまえば、気がかりも過去の思い出も溶けて頭の中は快楽のことだけになる。全身がジュンソを呑み込む性器になったように感じ、耳もとにジュンソの切なさげな喘ぎを聴きながら、シーツに這いつくばって、口からは唾液を垂れ流し目尻からは涙を溢れさせて、啼き声を上げる。
ぐい、と顎を押し上げられて少し苦しい体勢で口付けを受ける。ジュンソははな六の口を貪るように吸うと、はな六の背中に身体を預けた。
「気持ちいい、六花。とろとろに融けて、境界が無くなってしまう」
はな六も同じ心地がし、小さく頷いて目を閉じた。
疲れて微睡んで、夢うつつにまた繋がってを繰り返す。ふと目を覚ますと室内は暗くしんと静まりかえっていた。少し身動ぎをしてシーツがかさりと鳴る音さえ大きく聴こえる。はな六の目の周りはまだ新しい涙に濡れていた。
『夜中におうちに帰りたいって泣くなよな』
とサイトウに言われたのを思い出す。身体を横に向けると涙が枕の方へと伝い落ちた。指先でそっと瞼を拭う。目の前にはジュンソが無防備な寝顔をさらして眠っている。長い睫毛にスッと通った鼻筋。相変わらず綺麗な顔立ちだなあとはな六は思う。ただ、眉毛の眉間の近くが濃く太くて、眉尻に向かってしゅっと先細っていて、それを子供の頃にはよくからかわれていた。今は人前に出る時には眉尻を描き足しているようで、シャワーを浴びたら元の“笹まゆ”、子供の頃の面影がたちまち戻ってしまう。
親指の腹で眉をなぞるとジュンソは睫毛を震わせて目を薄目を開けてはな六をみとめると、口の両端を柔らかく上げた。
「おいで」
はな六がジュンソの腕の中に潜り込むと、ジュンソははな六の背に腕を回し、とんとんと背中を叩いて「ホームシックになった?」と聞くので、はな六は無言でジュンソの首の辺りに顔を埋めた。
「|梅花六宮《メファユックン》、どうして家出なんかしたの?」
「家出じゃありません。追い出されたんです。成績が、上げられなくて……」
「そう? 棋院の人達は、お前が急に辞めると言い出して、本当に出て行ってしまったと言っていたけど」
「私の気持ちなんか、ジュンソには解らないでしょ」
「ううん。今となっては、俺も似たようなものだよ」
「いつ気付いたの。私があのはな六だって」
「本屋で見かけたとき、一目でわかった。だって、お前の動きは特徴的だもん。お前がまだ|ジャパン《ここ》にいるとあれば、調べるのは簡単だった」
ジュンソは片肘をついて上体を少し起こすと、はな六の鼻を指で摘まんでくっくっと笑った。
「まさか気付かれないと思った? ねぇはな六。アンドロイドの魂って何のためにあるの? どんなに見た目が変わっても、お前がお前であり、|人間《おれたち》の友であり続けるためでしょ?」
はな六はぐぅ、と唸った。人間中心的な言い種。だが、実際アンドロイドは人間のために造られたのだから、その通りだ。
「こんなことをするまで黙ってるなんて」
「ごめん。でも、気持ちいいことをした後って、お互い、素直になれるでしょ」
ジュンソははな六の上に覆い被さった。
「またしたくなった。ねぇはな六、いいでしょ?」
翌朝、朝食を摂るジュンソの前で水を飲んでいると、頭の中で警告音が鳴った。視界いっぱいにポップアップが展開し、電子音声が読み上げる。
『電池残量が十五パーセントを切りました』
思ったよりも電気消費量が多い。バッテリーは入院中に交換したばかり。きっと新しいパーツのせいだろう。休暇中、電気残量に関わらず、寝るときに必ず充電していたので、気付かなかった。
生憎、充電器は持って来ていない。はな六はジュンソに自分がアンドロイドであることを明かしていなかったし明かすつもりもなかったから、お泊まり中は充電は出来ないものと思い、充電器を家に置いて出たのだ。
「ねぇ」
と、二人とも同時に言ってしまい、どうぞと譲りあった結果ジュンソから先に話した。
「もし良かったら、はな六、俺と一緒に住まない? 俺、仕事で韓国とジャパンを行ったり来たりで、長く家を空けるでしょ。その度に猫達を連れ回したりシッターさんに預けたりして、可哀想だから。はな六がずっと家に居て、猫達を見てくれたら安心だなって思って。だって、にくまんもあんまんも、こんなにはな六に馴れているし」
にくまんとあんまんは、昨夜ははな六を恐れているような目で見つめていたのが嘘のように、はな六にぴったりとくっついて離れない。はな六もこの二匹を可愛く思う。だが、はな六の口は反射的に言った。
「ごめん、それは出来ない」
「そうか……」
ジュンソが悲しげに眉を下げるのを見ると、気の毒になってしまう。
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