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第3章 はな六のふぜんなクリスマス④

 はな六はそう答えたとき、全くの考え無しだった。後から理由は思いつく。はな六はセクサロイドなので、一人の人間の元でずっと帰りを待つだけの暮らしは苦しくて出来ないこと。ジュンソの兄貴分としては弟分の世話になるのはプライドが許さないこと。囲碁の世界とは金輪際関わらないと心に誓ったのに、ジュンソの側に居れば否応なしに囲碁界の情報は入って来ること。ハン・ジュンソのファン達は彼の相手は張麗凰ということで納得していて他は受け付けないこと。そして……。 「そうだよね。はな六にはもう可愛がってくれる人がいるんだ」 「んー……」  可愛がられてはいる。ただし、はな六の望まない方法で。 「わかった、諦めるよ。次ははな六の番だよ」 「んー、悪いんだけど、おれそろそろ帰らなきゃ。電池がもう尽きそうで。充電器、家に置いて来ちゃったし」 「コンシェルジュに頼んで買ってきてもらおうか?」 「ううん、おれのは専用のやつだから」  はな六はシャワーを借りて身支度を整えた。玄関までジュンソは見送りについて来て、はな六にコートを着せ、囲碁セットの入った紙袋を手渡してくれた。 「エントランスに送りの車を用意してある」 「ありがとう」  ジュンソは名残惜しそうにはな六を抱き締めた。 「昔みたいに、お前の所に遊びに行ってもいい?」  はな六は首を横に振った。 「電話をするのは? メッセージを送るのは?」 「お客さんとプライベートで会うのも電話するのも、禁止だから。でもお店を通せば会えるし話せるし、セックスだって出来るよ」 「……じゃあ、我慢する」 「よしよし、ジュンソはいい子だね。じゃあおれ、そろそろ行くね」 「ん、また呼ぶから来て。それから、充電器の型番あとで教えてよ。そしたら用意しておくから」 「うん」  差し出されたジュンソの小指に、はな六は自分の小指を絡めた。 「約束」  小指を繋いだまま、親指と親指を合わせる。 「判子」  そして指を離し、互いの掌を合わせて、スッと引く。 「コピー。契約成立。忘れたらげんこつ百万回だからな」 「忘れないよ。じゃあね、バイバイ、ジュンソ」  ジュンソに背を向けて玄関を出ようとするとドアが開いたが、はな六はぎょっとして一歩下がった。 「鏡!?」  目の前の相手とはな六の声が見事に重なる。はな六が右に避けようとすれば相手も右に避けるし、左に避けようとすればまた相手も左に避けるものだから、にっちもさっちもいかない。しばらく左右に行ったり来たりを繰り返した挙げ句同時にピタリと動きを止めたと思ったら、 「いって! 何するんだよもー」  はな六は打たれた右の頬を擦った。 「鏡じゃない」  はな六が何か言おうとする前に目の前の女の子は鼻と鼻とがくっつくくらいまで距離を詰めてきた。 「嘘ぉ。すごーい、私そっくり!」  女の子……張麗凰(チャン・リーフアン)は無遠慮にはな六を上から下まで眺め回した。 「リーワンア!」  唸るように言ったジュンソに、 「その呼び方はやめて」  麗凰はピシャリと言い返した。 「もうあんたとよりを戻す気なんかこれっぽっちもないから」 「分かってるっ。で、日曜の朝っぱらからただの他人、しかも男の部屋に押し掛けて来る理由って何?」  麗凰は肩を竦めて笑った。 「別にあんたの寝起きの顔を拝みに来たんじゃないよ? ただ、ここに置きっぱなしにしてた私の碁盤を返して貰おうと思っただけ」 「そんなこと!?」 「だって、あんた今日の午後にはカンナムに帰っちゃうって、トユンが言ってたんだもん!」 「だったら宅急便で送れって電話でもくれればいいじゃないか!」  はな六は唖然として二人の言い合いを見守った。久しぶりに彼らの痴話喧嘩に遭遇してしまったが、子供の頃は可愛げがあったそれが、双方大人になった今ではかなり迫力がある。はな六の視線が彼らにほど近いせいもあるかもしれない。クマともタヌキともつかないぽんぽこりん時代のはな六にとっては、二人の罵倒の応酬は遥か頭上の空中戦だった。  張麗凰のクリスタル碁盤を取りにジュンソが奥へ消えると、麗凰は興味津々な様子ではな六をじろじろ見るのを再開した。 「ほんと、私にそっくりだね。あなたジュンソの新しい恋人?」 「いえ、ただの友達です」 「そお? じゃあさ、私とも友達になってよ。えーと、」 「六花です」 「リッカ! 私は張麗凰。よろしくね」  麗凰は強引にはな六の右手を握った。麗凰の目ははな六の目と丁度同じ高さで、強い意思を持った鳶色の瞳がはな六を射るように見つめる。だが視線の強さに対して、麗凰の手ははな六の手よりもずっと小さく華奢で、簡単に折れてしまいそうで、よく似てはいてもはな六とは違ってか弱い女の子なのだと思わされる。きっと身体だってちょっと抱く手に力を込めたら壊れてしまうのだ。 (どうりで皆に大事にされるわけ……)  はな六は麗凰の顔から視線を逸らした。彼女のこれまた意思の強そうなくっきりとした眉の一部が少し途切れているのを見つけてしまったのだ。薄くて目立たないミミズ腫れがそこには走っている。かつてはな六が着けた傷の痕だった。 (こんな女の子を傷付けたら誰だって怒るに決まってる)  悪いことをした自覚は勿論当時からあったが、こんなに華奢で薄くて冷たい掌を感じてしまっては、自分の仕出かしたことの重大さを思わずにはいられない。 「どうしたの? ちょっと顔色が悪いみたい」  一転して気遣わしげにはな六を窺う麗凰を振り切るようにはな六は踵を返した。 「それではお先に失礼します。お邪魔してすみませんでした」  はな六はふらふらと玄関を出て、出来る限りの早足でエレベーターへと向かった。    生まれて二十年、はな六は電池残量をここまで減らした経験は一度もなかった。送りのハイヤーに乗ったときにはえもいわれぬ焦燥感を覚え、掌や足の裏にじっとりと嫌な汗をかいた。やがて電池残量が十パーセントを切ると目眩がして生欠伸が何度も出るようになった。マサユキのマンションにたどり着く頃にはもう一人で立っていられず、部屋の前まで運転手に肩を貸してもらわなければならない程だった。  重いドアの隙間を何とかすり抜け、はな六は玄関を上がった所に荷物を投げ出すと、よろよろと茶の間に向かった。廊下には食べ物の匂いが満ち、ガラス戸の向こうからは楽しげな笑い声が聞こえた。 「ただいま戻りましたぁ」 「お帰りなさい、六花ちゃん」 「お帰り」  居間の炬燵でマサユキとムイが朝食を摂っているところだった。二人は楽しげに会話をしていたその表情のまま、はな六の方を見た。 「思ったよりも早かったな、はな六」 「うん、まぁ。ムッちゃんこそまだ居たの?」 「居たら悪ぃか? マサユキとヤるのは俺達に与えられた平等の権利だぞ」 「わかってるよ、そんなの。それよりおれ、すごく、眠い。マサユキ、布団貸して」 「あらら、昨夜はちゃんと寝かせて貰えなかったんですか?」  はな六は残りの力を振り絞って、首を横に振った。 「ううん、ただの、で……ん…………」  居間の南隣の部屋に敷きっぱなしになっていた研修用の布団に、はな六はコートも脱がずにばたりと倒れ込んだ。布団からは、人の汗の匂いがした。まだ新しい。 (いいなぁ、ムッちゃん。いいなぁ……)  はな六は目を閉じ、そして動かなくなった。   「ややぁ。びっくりしちゃいましたよ、僕。よく眠ってるのかと思ってほっといたら、呼吸まで止まっていたのですから」 「そりゃ当たり前だろうよ。コイツはアンドロイドなんだからな」  サイトウのいつものカエル笑い。  全ての感覚の中で聴覚が一番先に目を覚ました。どうやら長い時間、電池切れのまま放置されていたらしい。 (寒い……)  電池切れで体内の電熱機も止まっていたのだ。そのせいで、全身が氷のように冷えきってしまっている。 「おっと、身体が冷えちまったんだな。おぉよしよし、こんなに震えて、寒いんでちゅねー」  サイトウの大きな手が、毛布越しにはな六の肩や背中や二の腕を擦った。いつの間にか、人の温もりを枕に眠っていたことに、はな六は気付いた。 (この熱くてゴツゴツした感じ、サイトウかな?)  はな六はゴツゴツとして温かい物に後頭部を軽く擦り付けた。 「それにしても、見ろよ、可愛い寝顔だろうが」 「僕、六花ちゃんの寝顔、初めて見たんです。こんなに天使みたいな顔して、眠るのですねぇ」 「俺はコイツのこれが気に入ったの。幸せそうでさぁ。どんな夢見てるんかなぁ。きっと、俺にケツ穴掘られれる時のことだろうな、ぐへへへへ」  マサユキは大きくて長いため息を吐いた。 「サイトウくん、本当にいいんですか? 六花ちゃんにこの仕事を続けてもらっても」 「ケケッ、いいんだよォ。コイツが俺の所に来た時点で覚悟は決めてら。セクサロイドには三度の飯の代わりに沢山男を食わせないとならねんだ。でも稲荷大明神様がくれた子だからよ。ワガママは言えねぇやの」 「それならいいんですけれども。でもサイトウくん、六花ちゃんの留守中に、変なこととか……」 「あ?」 「いや、何でもないです」 (イナリダイミョウジンって何だろう?)  はな六の耳には二人の声が音として入って来るだけで、意味が全く分からなかった。 「あんな事があった後なんで、仕事を再開させて大丈夫かなと心配だったんですが、大丈夫みたいですね」 「おーよ。コイツは旧式のアンドロイドだからな。人間のことを恨んだり憎んだり出来ないように脳に細工がしてあるんだってな。だから平気なんだんべ」  旧式とか脳に細工とか、一体何の話なのか? 微かに湧いた疑問はしかし、頭の中にもやもやと立ち込める霧の向こうに霞んで消えていった。

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