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第5章 ジュンソには言いたいことがある④

 宿泊するホテルのことを、 「独りになりたい時に行く、ちょっと辺鄙な場所にある定宿だ。でも、俺にとっては最高の場所なんだ」  などとジュンソは言ったが、着いてみれば、そこはプライベートビーチを抱えた、巨大な高級リゾートホテルだった。辺鄙な場所、というのは本当で、両側を鉄条網つきのフェンスに囲まれたひび割れだらけの道路を延々と走った先の、ボサボサの枯れ草だらけの荒地の向こうに建っていた。背面は遺跡のように古びた建物に見えたが、正面に回るとまるで白亜の宮殿のような外観だった。 「はあああああ!?」  エントランスに降ろされたはな六は、辺りをキョロキョロと見回した。オフシーズンのせいか、他に人影は見当たらない。運転手がトランクから荷物を下ろす。はな六の荷物はデイパック一つしかないというのに、ジュンソの荷物は一泊旅行にしてはやけに多い。旅行鞄が一つの他に、大きな荷物がキャリーカートに載せられている。ボーイが荷物を受け取り案内をする。ジュンソがはな六の車椅子押し、その後に続く。  扉が開くと、見たこともない豪奢な部屋で、はな六は眩暈がした。金持ちの客が呼んでくれるシティーホテルの一室よりも、ジュンソのマンションよりも、きらびやかだ。 「普通のツインでごめんね」 「いやいやいやいや、とんでもないですっ」  はな六が首をブンブン振ると、ジュンソはくすりと笑った。 「おいで、はな六」  ジュンソははな六の手を引いて部屋の中央を横切り、バルコニーへ出た。正面には海が広がっている。分厚い雲が地平線まで覆い、海面はくすんだ青色まじりの灰色だった。 「見て。空と海との比率が完璧で、素敵だと思わない?」  そう言われてみると、そうなのかもしれない。空の方が少し広い。 「地上からは勿論、一番上の階にある部屋からも見えない、ここだけの景色なんだ。もっと高級な部屋もあるんだけど、俺はここが一番好きでね」 「うん」  手すりに肘をついて、電線に停まるスズメ達のように肩を寄せ、うら寂しい海を眺めた。南の国とは思えない、冷たい北風が通り過ぎていく。 「空が、泣き出しそうだ」  そう呟いたジュンソの横顔を、はな六はちらりとうかがい、そしてまた海の方を向いた。 (サイトウは今頃、どうしているだろう)  空は灰色だけに覆われているか、そろそろ夕焼け時だ。サイトウは、きっとまだ作業場に居るだろう。暗くなってから少しして、サイトウはドスドスと足音を響かせて、二階に上がってくる。はな六が仕事に出る準備を始める前に、サイトウは必ずはな六を構いに寝室に来るのだ。その日最初の客に汚される前に、サイトウははな六を可愛がる。  サイトウが暗く誰もいない寝室を覗くところを、はな六は想像した。すると、胸の中でおもちゃの心臓がキリキリと痛んだ。サイトウとセックスできない夕方は、これまでにも何度かあった。だが、その間にサイトウが何をしているか、などと考えたのは、これが初めてだ。  上等な部屋に、上等な調度品、家具。それらに囲まれていながら、膝に、埃がついて黒ずんだ、ヨレヨレのテーピングを貼り付かせているのは、ちょっといたたまれない。そういう思いがつい、膝に手を伸ばさせる。 「膝、痛い?」  気遣わしげに問われて、はな六は膝からさっと手を退いた。 「ううん、大丈夫」  ジュンソの首の後ろに両腕を回し、ぎゅっと抱きつきながら、膝が痛まないポジションを探る。そんなはな六の努力を知ってか知らずか、ジュンソははな六の臀部を掴んで、ぐいっと引き寄せた。おかげでようやく膝を少し伸ばしてくつろげることが出来た。はな六はほっと溜め息を吐いた。甘えん坊なジュンソの相手は、とにかく膝にくる。 「ねぇ、はな六」 「なぁに、ジュンソ」 「はな六」 「なぁに」 「はな六……」  ジュンソはただ、はな六の首筋に顔を埋めた。 「ねぇ、はな六。正月休みは、何して過ごしたの?」  たっぷりとセックスをして、二つあるベッドのうち、バルコニーに近い方のベッドに二人で入り、ふかふかの枕に背中を預けていた。日が沈むよりも前に始めていたので、時刻はまだ二十時を少し過ぎたくらいだ。 「んー、仕事仲間と集まって忘年会をして、初詣に行ったでしょ。それから、テレビで碁の特番観て、あとは普通の休みだよ。ジュンソは、|正月《ソルラル》はこれからなんでしょ?」 「うん。久しぶりに、母さんに会う。|秋夕《チュソク》の少し前に会って以来だ。父さんの墓を掃除した時に。|麗凰《リーフアン》も一緒だったから、俺はあまり母さんと話す時間がなかったな。話したい半分も話せなかった。今度は麗凰抜きで母さんと過ごせる」  ジュンソは嘆息して、はな六の方に体ごと向くと、そっと手を伸ばして、はな六の頬に触れた。 「俺は情けない奴だ。麗凰が俺の前で、俺の母さんを“ママ”と呼ぶのが許せなくて。それくらい、広い心で許さなくてはならないだろ? でも俺にはそんなことも出来ない。俺の家族は母さんだけだ。俺が生まれる前に父さんは病気で死んだし、兄弟もいない。麗凰には両親も、兄姉達だっているのに、どうして俺の母さんまで取ろうとするんだ。そんなのズルいじゃないかって。いい歳してそんな馬鹿げたことを思ってしまう」  はな六もジュンソの方を向き、ジュンソの手の甲に掌を添えた。 「今度こそ本当に縁を切ってしまいたいな。麗凰には何もかも取られてしまうんだ。母さんも、囲碁も」  そう言いながらも、ジュンソはきっと、麗凰とよりを戻し、ずるずると付き合い続けていくのだろう。何だかんだいって、ジュンソは麗凰のことが好きなのか、ずっと昔から、ジュンソは麗凰と喧嘩別れをしてはまた元の鞘に戻るのを、繰り返し続けている。  いつだったか、クマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイド時代、はな六は麗凰に何か心ないことを言われて、酷く腹を立てた。気付いたら、教室からは子供も大人も逃げ出しており、はな六と麗凰以外、誰もいなかった。机や椅子は倒れ、あちこちに碁盤や碁石が散らばっていた。 『わんわ!』  はな六は手近にあった碁盤を投げた。ゴッと鈍い音がして、麗凰がよろめき、額を手で押さえた。指の間から、真っ赤な血があとからあとから流れてきた。それでもはな六の気は収まらなかった。今度は机の上から|碁笥《ごけ》を取り上げ、麗凰に狙いを定めて振りかぶった。はな六の暴走を見て恐れをなした人々は、廊下と教室を隔てる窓に群がり、教室内を見守っていた。そんな中、ジュンソはただ見ているだけの群衆をかき分け、教室に乱入してきた。 『わんわ!』  はな六はかまわず碁笥を投げた。碁笥はジュンソの腕に当たって床に落ち、黒石を撒き散らした。 『はな六ッ!』  ジュンソが吼えた。怪我を負った麗凰を抱えて、庇うようにして。はな六の言い分など聞くつもりはないという、気迫があった。 『わんわ!』  はな六はまた碁笥を投げたが、それははな六とジュンソ達の丁度中間地点に落ち、蓋が弾け飛び、白石を撒き散らかした。 『麗凰、大丈夫か?』  ジュンソは麗凰の額にハンカチを当てた。ハンカチは血液を吸い、みるみるうちに赤く染まっていった。  はな六は伸縮自在の両手を、伸ばしきったまま、てれっと床に垂れた。そこへ警官達がドカドカと侵入してきた。  以来、ジュンソとは疎遠になった……という記憶も、もはや忘れかけの悪夢のようにおぼろげだ。セクサロイドとしての第二の人生が長くなっていくごとに、過去の記憶は遠くに霞んでいく。 「俺の母さんは立派な人なんだ。父さんが死んだあと、俺がまだお腹の中にいたというのに、母さんは父さんの会社を継いで、国一番どころか、世界でも有数の、大きな会社にした。俺のことだってほったらかしにはしなかった。忙しい中で、出来る限りのことを俺にしてくれた。会えばいつもありったけの愛情をくれるよ。俺だけじゃなくて、麗凰のことも、実の娘みたいに可愛がってくれる。公私共に、偉大な人なんだ。俺は、そういう母さんに見合う良い息子になりたかったんだけどなぁ……でも駄目なんだよな」  ジュンソははな六の髪を撫で、ふふっと笑った。 「嫌がらないんだな」 「何を?」  はな六は、ぱちぱちとまばたきした。 「こうやって、頭を触られるの」 「昔のおれは、嫌がっていたの?」 「うん。両手で、頭をガードして、『私を馬鹿にするな』って」 「んー、そうだったっけ?」 「そうだったよ。ねぇはな六、もっとこっちにおいでよ」  はな六はシーツの下をモソモソと移動し、ジュンソの腕の中に入った。ジュンソがはな六の背に腕を回したので、はな六もジュンソにそうした。 「温かい。ずっと、こうしていたいな。もっと早くに俺がお前を見つけていたら、お前は俺の所に来てくれた?」 「んー」  それはないだろう。はな六は長いこと、自分はジュンソに嫌われたのだと思っていたのだ。ジュンソの大切な麗凰を冷たくあしらい続けて、しまいには殴って怪我をさせたから。 「ねぇ、はな六。怒らないで聞いてほしいんだけど」 「うん」 「あのね……ううん、やっぱり何でもない」 「えぇ、何だよう。気になるじゃん」 「何でもない、忘れてくれ。それより、明日帰る時、はな六にいいものをあげる」 「いいもの?」 「うん、いいもの。家に帰ったら開けて。それまで中身は秘密」  ジュンソははな六の上に覆い被さった。はな六は仰向けになって口付けを受けた。もぞもぞと脚の間にジュンソが入って来るので、はな六は彼の背に腕をまわした。  そっと、五本指を持った手が、ジュンソの髪を撫でた。 「ふふ、よーく寝てる」  “それ”はいとおしげに、チュッ、チュッとジュンソの頬に口付け、そしてするりとベッドから抜け出した。 「さ、坊やも寝付いたことだし、おれたちはお茶の時間にでもしよ?」  クマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイドのはな六は、ベッドから床に下ろされる長い脚を見た。 (視点の高さが妙だ。私のこの身長では、ベッド上の様子を俯瞰で見ることなど、出来ないのでは?)  なのにはな六には、ついさっきまで、この姿の良い男の子がジュンソとまぐわい、そして幼児をあやすようにして寝かし付けた様をずっと眺め続けていた、という記憶があった。それはほんの数分前の出来事のはずが、酷く遠い感じがした。 (夢、でなければ、何だというのだろう) 「どうぞ、こっちに掛けていて」  はな六は“それ”……レッカ・レッカに言われるままに、窓際のテーブルについた。

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