56 / 63
第6章 バイバイ、はな六③
しばらくの間、はな六とユユは無言でテレビを観ていた。ハナナは眠ってしまったのか、はな六の鳩尾に鼻面を押し当て、動かなくなった。
ユユの携帯端末が震えた。
「はいはーい、ユユでーす。はい、はい、了解でーす」
ユユは通話を切ると、立ち上り、私物のバッグと仕事道具の入ったトートバッグを持った。
「そんじゃ、ユユ、お仕事入りましたので、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
ユユが軽快な足取りで待機室を出て行った直後、玄関で重いドアが閉まるときの振動が、待機室まで響いてきた。すると今まで眠っていたハナナが瞬時に目覚め、はな六の腕の中から飛び出した。
「まーき、まーきよ! かえいー!」
ハナナは長い腕をカラカラと引摺りながら玄関に走って行ったが、まもなくトンボ返りしてきた。
「はなっくぅ、まーき、ないない」
そう言ってハナナははな六にすがりつき、鼻面をはな六の胸に擦りつけた。開けっぱなしの引き戸の向こうから、ムイがぬっと姿を現した。
「うーっす、しばらく。つか、何だその変な生き物。お前のペットか?」
「違うよ。これはおれとサイトウの子供のハナナだよ」
「あー、そいつが噂の。思ってた以上にままごとくっせー見た目だな」
「ナチュラルにアンドロイド の存在を全否定するなよ!」
「してねえよ。サイトウ家 の歪な家庭に懐疑的なだけだ」
ムイはさっきまでユユが座っていたところに座り、足と手を炬燵に入れて寒そうに背を丸めた。
「珍しいな。お前がこの時間に茶ぁ引いてるなんて。ハラダの爺さんはどうした」
「おれ、もうハラダさんには呼んでもらえないから」
「何で?」
「クレームされた。プレイが手抜きだとか、気持ちが上の空だとか、ワガママだとか」
ムイは鼻を鳴らし、ニヤリと笑った。
「お前、新婚生活が楽しくてボケたのか。もうサイトウにしか抱かれたくないって?」
「んーっ。ハラダさんに無理矢理中で出されたから、抗議しただけだよぉ」
ムイは厚ぼったい一重の目をまん丸く見開いた。
「おい、それハラダのジジイが全面的に悪いヤツだろ」
はな六は、眠ってしまったハナナの頭を撫でた。ハラダからクレームをつけられたのは数日前のことだ。ハラダはプレイの最中、こっそりコンドームを外してはな六に後ろから挿入し、中出ししたのだ。はな六は、家に置いてきたハナナとサイトウのことが心配で、つい上の空になっていたので、気付けなかった。
「ん。おれが怒ったらハラダさん、ごめんって言ったんだ。なのに、おれが事務所に戻ってきた時にはもうマサユキにクレームが行ってて、マサユキ、怒っちゃって……」
「は!? 何でお前が怒られるんだ? 訳がわからねぇ!」
はな六はびくりと首を竦めた。はな六の腕の中で、ハナナが「ぬんぬん」と呻いた。
「どういう接客をしたら、ハラダさんみたいないいお客さんを怒らせるのかって。この間、おれのお客さんが一人、プレミアム会員辞めちゃったのもあって。手抜きしてるんじゃないかって」
プレミアム会員を辞めた客というのはジュンソのことで、彼の場合は勿論、はな六に対して不満がある訳ではなかった。ジュンソは電話で直接、マサユキに会員を辞める理由を説明した。仕事に専念しなければならないからだと。だがそれをマサユキは疑っている様子だ。
ジュンソがプレミアム会員を辞めてから、ハラダまでもが会員を辞めると騒ぎ出すまでの間にも、他の客数人からはな六に対するクレームが細々と入っていたらしく、マサユキははな六の方に否があると判断したようだ。……と、はな六には思えた。そんなことを、はな六はムイにたどたどしく説明した。ジュンソとの関係は勿論伏せてだが。
「ふーん。それは、お前はそう思ったってだけの話か? マサユキは本当に怒ったのか? あいつ、余程のことがない限り、従業員に怒ったりしねーんだけど。怒ったって、怒鳴ったりとか、胸倉掴んだりとか、物に当たるとか、したのか? あのマサユキが」
「んー。おれには、怒ってるように見えた……」
「はん、見えただけかよ。お前の見立てはアテにならねー。マサユキの顔はいつ見ても怒ってるのかいないのかわからねー仏頂面だろうが。それより、しょっちゅうあからさまに苛つきを顔に出しまくってるサイトウと、平気で暮らせてるお前だ。お前は、人の表情を読むセンサーがぶっ壊れてるとしか思えない」
「んー」
「お前の真意は“怒ってるんじゃないかな?” じゃなくて、“怒ってたらいいのにな”ってとこだろ? そしたら後腐れなく辞めれるって思ってんだ」
「おれが? この仕事を辞めたい? そんなこと、思ったこともないよ」
「どうだかな。どうせお前には、こんな仕事してまで稼がなきゃいけない理由なんか、ないだろ」
「あるよ……この身体のメンテとか、ハナナの為に学費を貯めなきゃとか」
「仕事を辞めればメンテの頻度は減る。子供の学費は急ぎじゃない」
「んー」
(何で、ムッちゃんにそこまで言われなきゃならないんだ。仕事をするもしないも、おれの勝手じゃないか)
はな六はふと思い出した。いつだったか、ムイがここでマサユキと食事をしていたときのことを。
(ムッちゃんは、とても嬉しそうだった。マサユキとセックスして、朝ごはんを食べて。ムッちゃんもマサユキのことが好きなんだ)
(ひょっとして、ムッちゃんはおれのことが邪魔なのか?)
はな六はきりりと奥歯を噛みしめた。これを機に、ムイははな六を追い出しにかかっているのかもしれない。
「お前、今ひっどい顔してるぞ」
「えっ」
「だいぶ疲れてる……いや、やさぐれてる、荒んでるって感じか。お前、今日はもう帰れよ。そんなツラで働いても、余計に客を失うだけだぞ」
「うるさいっ!」
はな六は立ち上がった。膝の上からハナナが転げ落ち、むずかり始めた。
「おれのことなんか一ミリも心配してない癖に、何が“ひっどい顔”だよっ! ムッちゃんはおれのことが邪魔なだけだろ!? おれが………おれがマサユキに気に入られてるからっ」
ムイははな六を無表情で見上げ、鼻を一度鳴らすと、また俯いた。
「どうとでも勝手に思ってろよ。ただ、一つ言わせてもらうが、俺らが客にクレームつけられまくった時、マサユキはただ詰ってあとは放ったらかしになんかしない。どうしたらいいのか一緒に考えようって、プレイを見てくれるんだ。なのに失敗こいたまま放置されてるお前って、何なんだろうな」
「はなっくぅ、はなっくぅ。なっこ、なっこしてぇ」
ハナナがはな六の足下でじたばたと暴れ始めた。はな六は跪き、ハナナに手を差し伸べた。ハナナははな六の背中に腕を絡みつかせ、はな六の腕の中にぴったりおさまった。
「もういい、帰る」
「おう、帰れ帰れ。ムカついたからって、子供に当たるなよ」
「そんなこと、するわけないだろっ!」
はな六は自分のデイパックを掴み、早足で玄関に出た。靴を履いたところでドアが開き、マサユキと鉢合わせた。
「あらら、六花ちゃん、もう帰るんですか?」
「まーき、まーき! ねぇまーきぃー、あそんでぇ?」
ハナナははな六の胴から手を離し、マサユキの方に身を乗り出した。
「ダメだよハナナっ。もう帰るんだから!」
はな六はバランスを崩し、前のめりによろけた。ハナナが腕の中から転げ落ちそうになる。
「おっとと。危ないですよ、ハナナちゃん」
マサユキがハナナを受け止め、はな六に返した。はな六は奪い取るようにハナナを受け取り、マサユキを見上げた。マサユキは細い目を少しだけ見開いた。
「六花ちゃん、つい今さっき、お客さんが入ったんですけど……」
「そんなの、ムッちゃんに回してください。おれはもう帰るんです」
マサユキは少しの間、ぽかんと口を開けたまま黙っていた。そして、ふぅ、とため息を吐くと、はな六にビニール袋を差し出した。
「これ、六花ちゃんが出ている間に、ハナナちゃんと遊ぼうと思って買ったやつです。おうちで使ってください。サイトウくん、こういうの上手ですから」
はな六は袋を受け取り、足早に事務所を出た。
半端な時間なせいで、帰りの電車内は空いていた。ハナナは車内の明るさに興奮した様子だったが、十分もするとはな六の膝の上で丸くなって寝てしまった。はな六の携帯端末が煩くぶんぶんと震えた。確認すると、マサユキから何度も着信があった。はな六は端末の電源を切り、嘆息してシートに背中を沈めた。
終点のワコーシティーではな六は降りた。駅から出て、タクシーを捕まえようと歩き出すと、前方から長身の男ががに股で近付いてきた。
「ケケケ、おかえり」
「サイトウ……」
「マサユキが、心配だから迎えに出てくれとよ。オメェ、ハナナの相手で疲れちゃったんだろ?」
はな六は首を横に振った。サイトウはハナナと荷物を受け取り、はな六の手を引いて歩き出した。
「マサユキには、オメェをしばらく休ませるって、言っといたかんな」
「何で、そんな……」
「勝手に悪ぃけどよ。オメェ、昼間ハナナの相手して、夜も働きに出たら、そりゃあ疲れるだろうよ。俺が悪かったんだよ。オメェが追い詰められてんのに、気付かなくてな。ごめんな、はな六」
「んっ……」
視界がじんわりと滲み、歪む。はな六は慌てて手の甲で目を擦った。泣くまい、泣くまいと自分に言い聞かせても、涙はあとからあとから溢れ出してきた。
「サイトウ、サイトウ。おれ、何にも出来てないよ。何にも上手くいかないよぉ。ただ、ハナナに振り回されて、イライラしてムッちゃんに喧嘩売ったり、マサユキに八つ当たりして……」
「ほっか」
サイトウは熱い掌で、はな六の手をぎゅっと握りしめた。
ともだちにシェアしよう!