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第6章 バイバイ、はな六⑥
「ううん、大丈夫」
はな六はサイトウの手を握り返した。
「まーた、冷てぇお手々ちゃんだなぁ。遠慮しねぇで手袋してこいよ」
「だって、汚したくなかったんだもん」
「軍手やりゃあよかったいな」
サイトウは両手ではな六の手を包み込んで擦った。冷えていた指先がじんわりと温まっていく。
「ねぇサイトウ」
「あ?」
「ハナナって、おれたちといて何が幸せかな」
「あ?」
はな六は、蝶を追いかけ回しているハナナを見た。蝶はひらひらと上昇し、ハナナの手の届かないところへ行ってしまった。ハナナは蝶の飛び去った方を見上げていた。そんなハナナの後頭部にテントウムシが飛んできて、ぴたりとくっついた。ハナナは気付かない。ハナナには触覚がほとんどないからだ。
「だってさ、ハナナは“温かい”を感じることができないんだよ。サイトウは“温かい”が幸せだって言ったでしょ? ハナナはおれやサイトウに抱っこされても、頭を撫でられても、キスされても、わからないんだ」
「おー」
「だったら、ハナナには何が幸せなのかなと思って」
サイトウはヘッと笑った。
「そいつはあれだ、真似っこだろうな。幸せな家族の真似するのが、ハナナにとっては幸せなんだんべ。飯食う真似するだけで、楽しそうだろ? だからよ、“温けぇ”を教えてやれねぇ代わりに、俺らはハナナに沢山経験させてやらねえといけねえんさ。幸せな家族のやり方ってもんをよぉ。なぁ、はな六よ」
サイトウはよっこらせと起き上がり、はな六の肩を抱いた。
「オメェ、変な意地ィ張ってねえで、あいつに“お母ちゃん”って呼ばせてやれよ。ガキにとってよ、お母ちゃんは大事な存在なんだぜ」
「そう言われても、おれはハナナを産んではいないし、ちゃんと面倒見きれてもいないじゃん。ハナナだって、おれのこと“お母ちゃん”って呼ぶ気、最初からないみたいだよ。おれ、男だしどう見ても“お母ちゃん”って感じじゃないんだよ」
「ケケケ、んなぁこたぁねぇよ。ほれ見ろや」
サイトウが広場の方を顎でしゃくった。ハナナがこちらに向かってとっとこと駆けてくる。
「はなっくぅ!」
ハナナは勢いつけてはな六の腕に飛び込んできた。耳の後ろにまだ、テントウムシがくっついている。
「これがお母ちゃんに甘えるガキじゃなきゃ、なんなんでや?」
はな六はテントウムシに人差し指を近づけた。ハナナの後頭部をうろうろしていたテントウムシは、はな六の指先を見つけると乗り移ってきた。そろそろと指を移動して、ハナナの目の前に差し出した。
「ほら、ハナナ。テントウムシ」
「うわ、かわいーねぇー」
テントウムシ。はな六がクマともタヌキともつかないぽんぽこりんのアンドロイドだった時代、囲碁教室の生徒が捕まえてきて見せてくれたことがあった。先ほどのように、知らぬうちにはな六の頭の後ろにくっついていたこともあった。ジュンソがそれを指で掬って、見せてくれた。
「レディ・バグ」
ジュンソはぼそりと言って微笑んだ。テントウムシは艶々と輝いていて、宝石のようだった。だが、見た目では雄も雌もなく同じに見えるのに、どうしてレディ だとわかるのだろう? と、はな六は首を傾げた。
テントウムシははな六の指からハナナの指へと乗り移った。だが、ハナナが指を高く上げると、硬い殻の下から薄羽を出してブゥンと飛んだ。あっという間に高く高く舞い上がって小さな点となり、やがて空に溶けるように消えてしまった。
風が少し強くなった。
「さて、そろそろ行くべ。電車に乗ってよ、マサユキらと待ち合わせだ」
皆立ち上がると、サイトウはバタバタとはためくシートを畳んだ。
シンジュクステーションで、時間通り、マサユキ、ユユ、ムイと落ち合い、三人にハナナを預けて、はな六とサイトウはカブキタウンへ行きホテルに入った。ほんの数時間だが、久しぶりにハナナを気にせずにゆっくりとセックスに耽ることが出来る。
あまり広くない部屋の中央には、最近流行りの天蓋付きダブルベッドが設えてあった。ベッドや調度は新しく派手だが、既に薄汚れて体液の臭いが染み付いていた。
はな六は赤いシーツの上に四つん這いになり、後ろからサイトウを受け入れていた。
「あ……はぁ……んんっ! サイトウ、いっちゃう!」
一際強く腰を打ち付けられ、はな六は背中を反らせた。お飾りからびゅうっと精液が迸り、シーツに赤黒い染みを作った。両手から力が抜ける。はな六は前のめりに倒れ、ふかふかな枕に顔を沈めた。
「あーっ、やっべぇ。脚ぃつりそうだわー」
はな六が顔を上げ振り返ると、サイトウは仰向けに倒れて太腿を擦っていた。
「大丈夫、サイトウ?」
はな六は這ってサイトウの側に移動した。
「あー、こらぁ歳だわ。これしきのことで脚がつるなんてよ」
脚がつる、という感覚ははな六には分からなかったが、とにかく脚が痛むということなのだろう。はな六はサイトウの腿を擦ってやった。
「やっぱり、午前中に張り切り過ぎたんじゃない?」
「うー、いてててててて。格好悪ぃ」
サイトウが手を伸ばしてきたので、はな六はその手を握って引っ張り起こした。サイトウは眉間に深い皺を寄せている。本当に苦しそうだ。
「サイトウ、ちょっと休憩しようよ」
「いんや、せっかくの夫婦水入らずだ。時間が勿体ねぇよ。オメェだって沢山ヤりてぇんだろが」
「いいよ、もう」
はな六はサイトウの唇にチュッチュと口付けた。するとサイトウははな六の後頭部を手で抑え、舌ではな六の唇をこじ開け、口内を舐め回しはじめた。唇の端から唾液が溢れ、顎を伝って首を流れ鎖骨まで濡らした。互いの息が上がっていく。二人は顔の角度を変えて互いの口内を貪りあった。
サイトウは唇を離し、唾液に濡れたはな六の唇をべろりと舐めた。
「オメェ、もっとヤりてぇんだろ、やっぱり」
はな六の脚の間では、お飾りが腹にぴったり添うほど反り上がり、先から粘液を溢れさせていた。だがはな六は、首を横に振った。
「平気。だってさっき一杯出したし、すごく気持ち良かったもん。ねぇサイトウ、疲れ過ぎてお家に帰れなくなったら困るから、今日はこれくらいにしよ?」
「うー」
サイトウは頭をボリボリと掻いた。
「ねぇ、少し横になろうよ。おれ、サイトウに腕枕して欲しい」
「ケケケ。しょーがねぇなぁ、俺様の嫁さんは。甘えん坊でよぉ」
サイトウは這ってはな六に近付いてきて横になった。はな六は掛け布団をサイトウと自分自身に掛け、サイトウの左腕の付け根に頭を載せた。サイトウは、はな六の肩がすっぽり覆われるように布団の端を引っ張った。
はな六はサイトウの方に身体を向け、少し顎を上げた。サイトウの顔が間近にある。相変わらずお世辞にもカッコいいとは言い難い凶相だ。サイトウは大きな口からやたら健康的に白い歯を見せてにやっと笑った。
「はな六、オメェは本当に可愛いな。丸いおめめはくるくる動くしよ」
と、サイトウははな六の顔に右手を伸ばした。
「ふぎゃ、可愛いって言いながら何で鼻を摘まむんだよぉ」
「ケケケ、思わず摘まみたくなる鼻だからさ」
指は鼻から頬に移動し、
「んー!」
「つねりたくなる頬っぺた」
そしてサイトウははな六にぐっと顔を近付けた。
「ほんで、何度でもチュッチュしたくなる唇だ」
サイトウの唇が、はな六の唇を丹念になぞり、甘く食んだ。
「二年半前に掃き溜めん中で見付けた時からよ、俺はオメェに夢中なんだ、はな六よ」
指先で鼻筋をなぞられ、はな六は目をしょぼしょぼさせた。サイトウを初めて見たとき……すぐに風呂場で犯されそうになったとき……初仕事から疲れて帰ってきたら、力ずくで犯されたとき……、はな六は、こんな奴なんかとは絶対一緒に暮らしていけないと思った。だが、サイトウの骨と筋ばった腕の中に抱かれて、熱い体温を感じていると、どうでもよくなってしまう。騙され、酷い仕打ちをされたのに、はな六の怒りはサイトウの熱に温められると、ゆるゆると融かされて形を無くしてしまうのだ。
はな六はサイトウの腿の間に脚を挟んだ。
「ねぇサイトウ」
「あ?」
(“温かい”っていうのは、“幸せ”っていうのは、ものの善悪をぐちゃぐちゃに曖昧にすることなの?)
「やっぱり、何でもない……。ねぇ、少し休んだらさ。あの神社に行こうよ。おっきいお飾りが飾ってあるとこ」
「あぁ、稲荷大明神様な。じゃあ行くべぇか。ハナナを貰ったお礼参りをしなくちゃな」
クマともタヌキともつかないぽんぽこりんのアンドロイド棋士のはな六は、今日も寮の自室で棋譜並べに精を出していた。親指と人差し指しかない手で石をつまみ上げ、一つ一つ並べていった。ところが……、
「うわっ!」
はな六は飛び起きた。突然何かが盤上に飛んできて、並べた石達が飛び散ったのだ。だが、今まで目の前にあったはずの碁盤も碁石も、どこかへ行ってしまっていた。いや、最初からそれらは無かったのだ。はな六の、五本ずつ指のある両手は、赤い布団を掴んでいた。サイトウはもう起きていて、携帯端末を掴んでいた手をがくりと落とした。サイトウは振り返り、青ざめた顔ではな六に言った。
「やべぇぞはな六、すぐ服着ろ。ハナナがどっか行っちまったと」
「え……?」
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