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第6章 バイバイ、はな六⑦

 はな六とサイトウは表通りに飛び出した。もう既に日が暮れかけ、空は赤く染まりつつあった。ビルの谷間は既に街灯やネオンに照らされていた。歩道には沢山の人が往来し、車道は渋滞している。 「とりあえず駅に戻るぞ。って、オメェ走るのおっせぇなぁ!」 「だってぇ、おれの体力、五歳児並みなんだもーん!」  サイトウに引き摺られるようにして、はな六は走った。駅に戻ると、交番前にユユが一人で待っていた。 「遅いよサイトウさん、はな六ちゃん!」 「マサユキとムイはどうした?」 「タクシーで都庁へ行ったよ。待ち伏せするって。さっきお巡りさんに聞いたら、ハナナちゃん、うちらの目を盗んでこの交番に来てたの。都庁までの道を聞いて、あと電話借りてたって。家族に迎えに来てもらうために、電話したいからって」 「家族って……」  はな六とサイトウは携帯端末を確認したが、もちろん着信履歴にそれらしい番号はない。 「サイトウ、やっぱり“タケゾウ”の家族のことだよ! ハナナは、本当の家族のところに帰ろうとして」  言い終わる前に、サイトウがはな六の胸倉を掴み上げた。サイトウの今までにない乱暴な振る舞いに、はな六は目を見開き、硬直した。サイトウは左目を細め、右目を剥いてがなった。 「あぁ!? そんじゃあ俺らは本当の家族じゃねぇってことかよ! あ!? テメェ、うちの家族は偽物だって言うんきゃ!?」  サイトウは両手ではな六の襟を掴んで強く揺さぶった。駅と通りの間を忙しく往来する人々は、見て見ぬふりではな六達のすぐ側を通り過ぎていく。交番の前に立つ警察官ですらはな六達を無視し、何事もない様子で立ち番を続けた。 「や、やめてよサイトウさん! はな六ちゃんはサイトウさんのパートナーでしょ? 暴力奮っちゃだめだよ!」 「うるせぇ!!」  サイトウははな六の襟を引いて投げ倒した。はな六はユユにぶつかり地面に尻もちをついた。 「クソッ、ハナナの野郎、よくも俺を裏切ったな! あんなに良くしてやったのによぉ。必ず取っ捕まえて、ぶっ殺してやる!」  サイトウははな六達を置き捨てて走り去っていった。 「うう、痛っ……」  はな六はのろのろと起き上がった。咄嗟に着いた掌を、開いてみる。両手とも小指側、手首の少し上辺りの柔らかい部分を、深く擦りむいていた。傷から水が流れ出している。 「はな六ちゃん……大丈夫?」  ユユの声を聞いた途端、視界がじわりと涙で歪んだ。 「うん、おれは大丈夫。ユユこそ、怪我しなかった?」 「気にしないで、ユユは大丈夫だよ」  振り向けば、ユユも怪我をしてしまったのか、膝を手で押さえながらふらふらと立ち上がるところだった。 「なにあれ、サイトウさん。急に人が変わっちゃったみたい」 「ううん、あれがサイトウの本性だよ」  はな六は、手の甲で両目をごしごしと擦った。 「サイトウはああいう奴だって、おれ、心のどこかで分かってたのに……」  昼間は春の陽気だったのが、日が落ちるとともに空気は急速に冷えていった。はな六の指先も、冷たくなっていった。 『冷てぇお手々ちゃんだなぁ』  ほんの少し前まで、大きくてゴツゴツした、熱い手が包み込み、温めてくれていたのに。 「“温かい”なんかで、有耶無耶にするべきじゃなかった……やっぱり、やっぱり……サイトウは、悪い奴だ……」  ビィンと脳に嫌な痛みが走る。動き出そうとしていた手足が、身体が、いうことを聞かなくなる。リミッターが作動したのだ。人間に対して危害を加える意思のある時、旧式のアンドロイドに仕掛けられたリミッターは作動し、当該アンドロイドを拘束する。 (違う、違う! そうじゃない! おれはサイトウをどうにかしたい訳じゃないんだ。ただ、ハナナを助けなきゃ。だって、おれがサイトウのおままごとに付き合うのは自業自得だったとしても、ハナナを、まだ生まれて一年も経たない赤ちゃんを巻き込むことは、“不善”でしょ!?) 「お願いだよ、レッカ・レッカ! おれを放して! ハナナのところに行かせて! サイトウには危害を加えないって、約束するから!」  地面から伸びた見えない手に掴まれているようだった足が動き、前に一歩踏み出た。そしてもう一方の足も一歩前へ。すると、足はどんどん加速していって、五歳児並みの体力しかないと診断されたのが嘘みたいに、はな六は走り出した。  はな六は人々の間を縫うようにして走った。ハナナは見つからない。昨日までは本当に乳幼児みたいによたよたと走っていたハナナだったのに、今日の午前中、突然に身体操作能力が飛躍的に向上した。今頃は人間には到底追い付けない速度で都庁に向かっていることだろう。  サイトウの姿も見えなかった。もしかするとタクシーを捕まえたのか、それともどこか近道を知っているのかもしれない。はな六は道に迷わないように、少し遠回りになってしまうが、街道沿いの一番簡便なルートを辿った。  交差点を横断し、北通りを左に折れ都庁通りに入ると、前方から懐かしい音が聴こえてきた。コロリンコロリンと忙しなく鳴っている。“あのはな六”……ハナナの足音だ。 「ハナナーッ!」  叫んでも、遥か先を走るハナナには聴こえない。ハナナははな六とは違って聴覚はそこまで優れていない。ハナナのオモチャみたいな足音は、益々速まり遠ざかっていこうとしている。そしてやっと本庁舎の聳え立つブロックまで来たとき、前方でずっと鳴っていた足音が速度を緩め、止まった。 『お父さん!』  ハナナ……タケゾウの息子・ハルトの声だ。 『ハルト、ごみんね、ごみんね!』  はな六はハナナの足音が止まった時点で走るのをやめ、立ち止まっていた。目のあまり良くないはな六には、その距離ではハナナとハルトの姿を見ることが出来なかった。が、 『やんや!』  ハナナは悲鳴を上げると再び走り出した。どうやらはな六が追って来たことに気付かれたようだ。はな六はそのまま駅に戻ろうと踵を返そうとした。ところが、 『裏切り者め……ぶっ殺してやる……』  サイトウだ。 「ダメだ、ハナナ、そっちにいっちゃだめ!」  はな六は走った。都庁前に停まった高級車の横で呆然としていたハルトにすれ違い、本庁舎の敷地を突っ切り、はな六は公園通りに出た。  都庁のブロックの南端から、通りの向かいの中央公園にかかる歩道橋の上に、ハナナとサイトウはいた。ハナナは街灯の柱に掴まっていた。サイトウは歩道橋の欄干の上に立ち、ハナナを捕まえようと手を伸ばしていた。 「ハナナ、サイトウ! 二人ともそこから降りて! 落ちちゃうよぉ」  駆け寄ったはな六の胸をサイトウの足が蹴り上げた。はな六は仰向けに倒れ、床を転がり、反対側の欄干に背中をぶつけた。 「うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ! テメェ、俺様の嫁の癖に裏切り者の肩を持つんじゃねぇ!」  はな六は呻きながら両手をついて四つん這いになった。階段をバタバタと複数の足音が駆け上がってくる。 「はな六!」 「サイトウ君、六花ちゃん!」  ムイとマサユキ、そしてユユも少し遅れてやってきた。 「サイトウさん、もう止めてよぉ。はな六ちゃん、泣いてるよぉ」 「サイトウ君、落ち着いて! 落ち着いて!」 「うるせぇ邪魔するなァ!!」  サイトウの咆哮に、ムイもマサユキもユユも息を飲んだ。 「俺ァこの裏切り者に制裁を加えるんだ。せっかく苦労して作り上げた幸せな家庭に、泥を塗ったくった罰を与えねぇとなァ」  狂っている!  はな六は両手を折り曲げ、土下座のような惨めな姿勢で、サイトウの声を聴いていた。  いや、狂っていたのはおれの方だ。初めからサイトウは何かおかしいって気づいていながら、ずっと見ないふりを続けてしまった……。“あのはな六”だったら、絶対に許さなかったのに、こんな、こんな……。 「やんやぁ、たちけて、たちけてぇ」  顔を上げれば、片足をサイトウに掴まれたハナナは、ずるっ、ずるっと街灯の柱を滑り落ちようとしていた。ハナナの金属製の輪っかのような手が、キイキイと懸命に柱を掻き、落下するまいとしている。 「サイトウ、やめてよ」  はな六は立ち上がった。そしてサイトウとハナナの方へと、一歩一歩、近付いていった。 「だめだよ、いくらなんでも不善過ぎるよ。こんなに小さい赤ちゃんを巻き込むなんて」  はな六は欄干に手をかけ、よじ登った。幅のない欄干の上で、ふらふらと何とかバランスを取り、サイトウに対峙した。サイトウは片手を街灯の柱について、もう片方の手でハナナの片足を掴んでいた。はな六はサイトウに向かって両手を差し出した。 「サイトウ、ハナナを返してくれ。もう、おままごとはお終いだ」 「はな六テメェ、テメェは俺の嫁じゃねぇんきゃ。何でこんな裏切り者の肩を持つんでや……」  そうこうしている間にも、ハナナは少しずつ滑っていく。はな六は一歩、サイトウの方へ踏み出した。 「“お母ちゃん”が子供の肩を持って、何が悪いんだよバーカ! 四の五の言わずにハナナを返せっ」 「なっ……」  あぁ、これが、おれがずっと見ないように顔を背け続けた、ほんとうのサイトウの……。 「マァマァ……」  はな六とサイトウは同時にハナナを見た。いやにゆっくりと、ハナナが墜ちていく。サイトウが身を乗り出し、バランスを崩し、はな六の手がサイトウを追った。 「はな六ちゃーん!!」  ユユの金切声を足もとに聴きながら、はな六はハナナとサイトウを抱き寄せようとした。だがハナナははな六の手を離れ、すぐ側を掠めるように通り過ぎたトラックの幌の上に落ちた。はな六はサイトウの背に両腕をきつく回し、ぎゅっとサイトウのウイドブレーカーの背を掴んだ。  空が見えた。日はすっかり地平の向こうに隠れたというのに、雲ひとつない空には一片の星屑の輝きすらない。まるでサイトウの目のような底無しの沼のような黒塗り。後頭部に鈍い衝撃を受け、続いて背中がアスファルトに叩きつけられた。 「そ、ら…………」

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