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第6章 バイバイ、はな六⑧
クラクション、ブレーキ、ユユの泣き声、「これはもうダメだ……」というムイの呟き。目も見えず、痛みも寒さも感じない。なのに音だけが、いつまでも耳に入ってくる。
クマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイドのはな六は、全く車通りのない、深夜の車道の真ん中に立っていた。
『はぁ、声はすれども姿は見えず』
ユユの泣き声が今でも聴こえる。遠くに救急車のサイレンも響いているし、野次馬のざわめきだって聴こえてくる。なのに、この道路上に生きて立っているのは、ぽんぽこりんのはな六だけだった。
はな六は路上に転がる二人を見下ろした。はな六の借りていたレッカ・レッカのボディの頭は粉々に砕け、細かい部品をアスファルトにぶちまけていた。夥しい数の虫の死骸のようなそれらを、破れた水管から溢れ出た水が浸していく。水に濡れては、もう二度と使い物にならないことだろう。
『拾ってー、早く拾ってよぉー。はな六ちゃんが死んじゃうよぉー。店長、ムッちゃん、サイトウさぁーん!』
サイトウはレッカ・レッカの胸に折り重なるようにして俯していた。安らかな寝顔で眠っている。
『ふん。泥沼にはまるように愛した“おんなのこ”の胸の上で死ねれば、本望だろ?』
はな六は腰に手を当ててそう言ってみたが、伸縮自在のはずの両腕は勝手につるりと伸びて、金属製の輪っか状の手が、コツリとアスファルトに当たった。
『はぁ、ハナナは無事だったかなぁ……』
ハナナを乗せたトラックが走り去った方角を、はな六は見た。
ぞわぞわ、ぞわぞわ。
ふとレッカ・レッカに視線を戻すと、弾けてバラバラになったレッカ・レッカの首に、沢山の黒い虫達がたかっていた。いや、よく見れば、それらはレッカ・レッカの頭の中から飛び散った部品の数々だった。部品が生き物のように集合し、がらんどうになった頭蓋の残骸の中に次々と入っていった。やがて部品達は全て頭の中に収まり、割れ飛んだ頭蓋骨も戻って来て、頭は再び封をされた。
レッカ・レッカの手がぶるぶると動き出した。探るように中空に伸ばされた手はやがて、自身の皮がずる剥けになった頭部を発見した。そして手はペタペタと剥がれた皮を頭に貼り付けていった。髪も皮と一緒に元に戻った。
レッカ・レッカは上半身を起こした。レッカ・レッカの胸にうつ伏していたサイトウは、ごろりと仰向けに転がった。
『あー……』
サイトウが、ぼやきのような長いため息を吐いた。
なんだ生きていたのか。あんな高いところから落ちたのに、運のいい奴!
『んー、んー』
レッカ・レッカは両手で目隠しをしながら、はな六に何か訴えた。ふと足もとを見れば、丸くて艶々に輝く物体が二つ落ちていた。はな六はそれらを拾った。青磁のように薄く青みがかった白の珠に、赤みがかった茶色の虹彩が描かれていた。レッカ・レッカの目だ。
『どうぞ』
はな六がそれらを返すと、レッカ・レッカは自分の手で眼球を眼窩に嵌め込んだ。くるっと丸っこくて眦のつり上がった目。レッカ・レッカの愛らしい特徴が甦った。レッカ・レッカはうーんと伸びをし、そして傍らに転がるサイトウを見下ろした。
『ねぇ、サイトウ』
レッカ・レッカは舌足らずな声色で、甘えるように言った。
『おれ、もう逝かなきゃ。サイトウなら、わかってくれるでしょ』
レッカ・レッカは名残惜しそうに、サイトウに何度も口づけた。
『さて、そろそろおれは行かないと。ずいぶん長い間、お祖父ちゃんを待たせてしまった』
黒くて小さくて薄い板状のものを、レッカ・レッカははな六に差し出した。
『これは、はな六の。今までどうもありがとうね』
はな六は手渡された平たい箱の右下にあるスイッチを押した。カシャリと小さな音がして、ひらたくて長方形の薄い板が飛び出した。板の中央には円型のへこみがあり、その円の中には二つの巴状のへこみが隙間なくおさまっていた。巴状のへこみのうち、上側には白いチップが嵌め込まれている。
『これは私の魂ですか』
レッカ・レッカは小さく頷き、そして右手をはな六に差し出した。はな六のリング状の指にレッカ・レッカは小指を絡めた。
『約束』
小指をそのままに、親指をはな六の指に押し当てる。
『判子』
指を解き、互いの掌を合わせると、すっと引いた。
『コピー』
『でも、これって何の約束ですか?』
『そらを、』
言い終わらないうちに、レッカ・レッカのボディは一瞬にして消炭となり、ぼろぼろと崩れ落ちた。炭は細かな灰となり、真上から吹き下ろして来た風によって四方八方へと散っていった。
闇の中にはな六は一人取り残された。
『また、都合のいい夢を見ていたようです』
ごろごろと地面の底で何かが蠢いた。はな六は周囲をキョロキョロと見回した。闇の中、闇よりも暗い色をしたもの達が、地面を突き破ってもこもこと生え、天に向かって伸びていった。それらは次々に枝分かれを繰り返し、木々となって、あっという間にはな六の周りがぐるりと林になった。黒い木々の枝には葉が一枚もなかったが、やがて一度に沢山の光る果実をたわわに実らせた。
『イルミネーションだ。綺麗だなぁ』
レッカ・レッカの目には滲んでよく見えなかった光の粒達が、このはな六の目には、一つ一つがくっきりと輝いてみえるのだ。
『すごい、イルミネーションって、貴方が言ったように、ほんとうに綺麗なんですね、サイトウ』
振り返ると、いつの間にか林の向こうには沢山のビルがあった。ビルの無数の窓にはまだ明かりがついていて、墨のように真っ暗だった空を、底の方から淡い黄色に照らしている。
カラン、と光の実の一つがはな六の手元に落ちてきた。それは実というよりもガラスの破片のような形をしていた。ひび割れた破片は内側から輝きを放っていて、それの中には何かが動いていた。
小さな窓を覗き込むように、破片の中をよく見ると、中に動く人影はサイトウだった。サイトウは作業場を出る車を外に誘導し、深々とお辞儀をして見送った。
また新たな破片が落ちてきた。はな六はそれを受け止めた。その中にもサイトウがいた。
『これは、今日の午後にホテルで私の鼻を摘まんだときの』
木の枝々にぶら下がる光の破片達は小刻みに震え、次々に枝を離れて落ちてきた。
『これも、これも、それも、あれも。みんな、サイトウばっかり』
破片の中に閉じ込められた沢山のサイトウ達はそれぞれ、笑ったり怒ったり食事をしたり仕事に没頭したりと、めいめいに過ごしている。
『もしかしてこれって、いわゆる走馬灯ってやつなのでしょうか』
死にさいして、脳が見せる最期の煌めき。
『でもこれって、私の魂に保存されているのでしょうか? ……まさか、これら全て未保存なのでは!?』
はな六は大慌てで降り注ぐ破片をかき集めた。
『ちょ、ちょっと待ってください! 待ってください!』
はな六は一つでも多く拾おうと奔走した。だが駆けずり回るはな六の頭上から雨粒のように落ちていく記憶の果実達は、地面に当たってはパリンパリンと儚く砕け散っていった。
『待って! 消えないで! 私はまだ全部拾えていません! サイトーウ!』
「また都合のいい夢を、見てしまいました」
はな六はなんだか見たことのあるような天井の下で目を覚ました。首を左右に曲げて見ると、周りをぐるりとカーテンが取り囲んでいた。
「はな六」
はな六は声の方を向いた。眼鏡をかけた顔の良い男がこちらを見ていた。手を握られている感触があった。それで自分の右手を見ると、やはりこの眼鏡の男がはな六の手を握っていたのだった。ただ、握られているはな六の手は今だかつて見たことのない形をしていた。指が一本もない。まるで消しゴムのような長くてくねった白い直方体のような手が、同じ色と形状の前腕と上腕と肩に繋がっていた。
「俺のことがわかる?」
「……ジュンソ」
「良かった。頭を強く打って、記憶障害が残ったかもしれないと聞いたから。だから、俺のこと覚えてるかなって」
「んー」
はな六はむくりと起きた。見る限り、どうやら身体は全体的に消しゴムのような形をしているらしい。
「あれー、ジュンソさん、はな六ちゃん起きましたぁ?」
ユユだ。
「うん、今」
さっとカーテンが開いてユユが姿を現した。
「あのね、はな六ちゃんの携帯がブンブンしまくってたから、悪いけど勝手に見させてもらったんだー。そしたらSNSのメッセンジャーにジュンソさんから連絡で。もしかしてはな六ちゃんの大事な人なのかなと思って、返信しちゃいました。そしたらお見舞いに来てくれちゃったわけです、イエイ!」
ユユに続いて数人が病室に入ってきた。人々がベッドの前を通る度にカーテンが少し揺れた。ユユの背後に背の高い女性が立った。ストレートの黒髪に、くっきりとした顔立ち。主治医のレイ医師だ。
「気分はどう?はな六ちゃん」
「はい、大丈夫です。身体が全体的に消しゴムである以外は」
「それ代替機なの。これまではな六ちゃんの使ってたボディ、もう廃棄するしかなくなってしまって。じきに替えのボディが来ますから、しばらくそれで我慢してね」
レイ医師による問診が終わると、周囲を覆っていたカーテンがすっかり開けられた。病室は個室だった。ジュンソとユユの他に、マサユキとムイもいた。サイトウはいなかった。
はな六はベッドを降りた。一応人型のボディだったが、五体満足な消しゴムのようなさらっとした見た目であるので、服を着る必要はなかった。部屋の出入口のところに洗面台があったので、はな六は自分の顔を鏡に映してみた。消しゴムにサインペンで落書きしたかのような、単純な顔だった。
「サイトウはどうしたんですか?」
はな六が聞くと、一同は困惑の表情で顔を見合わせた。
「六花ちゃん、こっちです」
マサユキが手招きするので、はな六はマサユキの後について病室を出た。
サイトウはすぐ下の階の個室にいた。病室の入り口と窓は開け放たれていて、風が通っている。ベッド周りのカーテンは開けられていた。ベッドの上に寝かされているアンドロイドは、頭の先から爪先までシーツに覆われていた。正確にいえば、シーツに覆われていたのは、頭の下半分の先から爪先までと右手だった。
サイトウはシーツから出された遺体 の左手を握りしめ、ボディの胸の上に頭を突っ伏していた。
「サイトウ君、六花ちゃんを連れて来ましたよ」
マサユキが声を掛けたが、サイトウは顔を上げもしなかった。そして、
「手が冷てぇんだよ。氷みたいに」
と呟くと、サイトウは獣のようにウォウウォウと声を上げて泣いた。
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