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 ツカツカと音を立てて、櫻井は森塚の前まで歩く。無言で森塚を立たせデスクに仰向けの状態で、体を押し付ける。衝撃で瞑っていた目を開けると、銀色に光るナイフが目に入った。  左手にしっかりと握られたナイフ。刃先を傷口に向け、真っ直ぐに振り落とされた。寸分違わず傷を抉る。 「ぎ、ぃあ゛ぁぁ……!」  思わず悲鳴を上げる。激痛、なんてものでは済まされない。ブチっと肉と繊維が切れる感触があった。それもすぐに分からなくなり、感覚が麻痺していく。 「もうやめてくれ!もり、……そいつは、関係ないだろ!」 「そ…、そうだ!狙いは俺たちなんだろ!?だったらそいつは解放してくれよ……!」  高野と沖が口々に叫んだ。だが、そんな子供の訴えなど、大人の前ではただの紙切れ同然。吹けば飛ぶような価値でしかない。 「俺らに楯突こうとした報いを、受けてもらおうか」  急に周りの音が聞こえなくなってきた。高野たちの叫び声が、どんどん遠のいていく。身体中が痺れ、言うことを聞かない。  もっと強ければ、強い力があれば、何か変わったのかな。  でも、今さら後悔したって、もう遅い。  結局、俺はまた何も守ることなんて、できないのか。  悔しい。唇を噛んだ。もう誰のことも傷つけないと誓ったのに。スローモーションで今度は心臓めがけてナイフが振り下ろされ──  ズドーーーーン‼︎と大きな音と、建物全体が揺れるほどの衝撃に、全員天井を見上げる。蛍光灯や電化製品がバチバチっと音を立て、プラズマが発生している。 「チッ……、何事だ?」  不機嫌そうに波切は端末を操作する。 『……こちら、氷見。何者かがビルに高電圧を流した模様。電化製品のショートにより、火災が発生する恐れがあります。至急撤退を』 「……なるほどねぇ。どうやら、時間切れのようだ。櫻井、聞いた通りだ。撤退するよ」  そう言うと、波切と櫻井は素早く部屋を後にする。残されたのは、逃げる手段を持たない子供たちのみ。 (たす、……かった?)  詰めていた息を大きく吸う。体を起こそう手をついた瞬間、あまりの痛さに、またしても叫びそうになった。だが、それは絶対にしない、と強く口を閉じて我慢する。  またしても戦況が変わったのだ。次、しなければならないことは、生きてビルから脱出すること。取り敢えず他害の危険が取り除かれたなら、考えようによっては生き残れる可能性が大幅に上がったのだから。  不必要な心配はいらない。思慮深い高野だから、自分の代わりに友人が怪我をしたとなると、責任を感じるに違いない。優しい沖のことだから、心を痛める姿が想像できる。  友人らの性格を分かっているからこそ、森塚は必死に痛みに耐えながら。残されたナイフを拾い、二人を縛る縄を切っていく。両利きではあるが、普段何かを持つ時は右手が多いため、左手だと幾分か握力が落ちる。 「ごめん……痛いかもしれないけど、我慢して」 「ッ……そんなん、気にしんくていいって……!森塚の方が大怪我してんだろ!」  穏やかな沖にしては珍しく声を荒げている。こんな惨状じゃあ、当然か。まだ流血は止まっていない。滴り落ちる赤が自身の制服を染め上げていく。 「高野……ごめん。おそくなっちまった」 「ごめん……俺の方こそごめん……あの時お前に電話しなければよかったのに」  涙ぐむ高野に、何も言えなかった。だけど、何も知らないまま友人が連れ去られていたと思うと、そっちの方が絶対後悔する。  ようやく拘束を解くことができた。早く逃げなければ。火の勢いは、すぐそこまで迫っていた。  窓を開け、下を見る。三階だと飛び降りるのは流石に難しいか……。何か使えるものはないか、と見回す。ロープ……いや、切ってしまったから、長さが足りない。 「カーテン……!繋げて、下まで降ろせば……!」  高野の提案に、ありったけの布類を集める。三人で手分けして端と端を結び、紐状にする。柱にしっかりと結びつけ、地面に垂らす。  誰から行くか?という話になるが、ここは一番怪我が少ない沖から行ってもらう。不安がっていたものの、普段から訓練しているお陰で、時間はあまりかからず降りることができた。高野も同じように、すぐに地面へと降り立った。足取りもしっかりしていたから、薬の影響は完全に抜けているだろう。  ホッと胸を撫で下ろして、さて、目の前のことに集中しよう。  窓際に足をかけ、距離を確認する。応急処置で傷口は縛っておいたが、まだ痛みは残っている。そのため脱出できるかどうかは、腕の力がどれだけ保つかによる。 (……ちゃんと降りれるかな)  ごくんと唾を飲み込む。モタモタしているうちに、火の手はすぐそこまで迫っていた。足踏みしていてもしょうがない。  カーテンをしっかり握り、右手は壁についてバランスをとりながら少しずつ降りていく。今のところ順調だ。  よし、いける……!希望が見えてきた。  ──しかし、それを人は油断と言う。  ズキンと右腕に痺れるような痛みが走る。その瞬間、力が抜けてしまい、バランスを大きく崩す。そのまま指を離してしまった。重力の通りに体は地面へ吸い込まれていく。  受け身なんて取っている暇も、余裕もない。  脳裏によぎるのは、今まで過ごしてきた思い出。浮かんでは消えていく、儚いものだ。 『──だから、生きて帰ってこい‼︎』 (……最期に思い出すのが、お前の言葉だなんて、思わなかった)  その言葉を最後に、森塚の意識は完全に落ちたのだった。  意識を失った森塚に、先に降りていた高野と沖が青ざめる。パニックになって、口々に叫ぶ。頭から落ちていく森塚の体があと数秒で地面に叩きつけられる、という時。 「────お前ら、離れてろ」  煙草の匂いがすることに高野は気づいた。そして、そのことに気を取られているうちに、森塚の姿は消えている。高野は恐る恐る、低めの気怠そうな声の主に、視線を向ける。 「……椎名先生……?」 「ったく、お前らほんと馬鹿‼︎何やってんだ‼︎」  怒鳴った椎名は、気を失った森塚を胸に抱き上げている。 「応急処置くらいはやってあるか……。ッチ、出血が酷いな。高野、沖、こっち来い。病院までショートカットだ」  椎名の指示に、二人は慌てて彼の体に触れる。  椎名孝志──藤ヶ丘学園に教師として勤める男だ。彼の能力は、瞬間移動《テレポート》。森塚が地面に接触する前に、彼の体を移動させ、ピンチを救った張本人だ。とはいえ、動いているものを瞬間移動させるのは、能力者のレベルにもよるがかなり難易度が高い。まだ年若くして教師を務める椎名の優秀さが窺える。 「一般病院を手配してある。話はそこでするぞ」  ゴゥっと炎が増す音が聞こえ、窓からは赤やオレンジ、それから灰色の煙が大量に溢れ出ていく。熱気がすぐ近くまで迫ってきていた。  教え子を抱え、椎名は能力を使い、三人の姿はその場から消えた。 「…………ちぇっ、手酷くやられちゃったねー、みんな」  白いバンの中、運転席の後ろに座る波切が口を開く。 「もちろん、何もなしでは帰れない。まだやりようはいくらでもあるからね。気張れよ、お前ら」  車内の雰囲気はグッと重くなる。  一人煮えたぎるような思いを持て余しているのは、櫻井だ。彼は今まで対峙した人間を、一人残らず甚振ってから葬ってきた。 「次の狙いは、君だけだ」  小声で呟く。  赤髪の跳ねた癖毛に、意志の強い瞳。────あぁ、早く崩したくてたまらない。ぺろっと舌舐めずりをし、櫻井はどうやって痛めつけようか思案していた。

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