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ラブ、大盛で #4
「まさか、牧さんがうちの店に来てくれるなんて。よく店の名前憶えてましたね」
セット椅子に座った牧に、鳴海が白いクロスをかける。
鏡越しに映った鳴海の服装は、ネイビーのニットカーディガンに白いカットソーに、ジーンズ。相変わらず気取っていないのに、他の誰よりも目を引いた。
「予約なら、言ってくれればよかったのに」
「急に髪切りたくなってさ。傷んで来たし、ついでにトリートメントもしたいなって。どうせなら鳴海のとこでと思って電話したんだけど、予約空いてて良かったよ」
本当は、前日にネット予約サイトでスタイリストの空き情報を確認していたので、この時間ほぼ確実に予約を取れることは知っていたのだが。
「……びっくりした?」
「はい。びっくりしました。でも、嬉しいです」
柔らかい笑顔を向ける鳴海を見て、牧は胸を撫で下ろす。
いきなり職場に押しかけて、迷惑そうな顔をされたらどうしようかと心配していたが。
この様子を見ると、やはり嫌われて避けられていたわけではなさそうだ。
前もって予約して、もし来るなと言われたら立ち直れないので敢えて直前予約にしたけれど。どうやらそれも杞憂だったみたいだ。
「ふらっとやってくるなんて、牧さんらしいな……」
「ん? 何か言った?」
「いや、こっちの話…」
くすりと笑う鳴海はどこかご機嫌で。
楽しそうに、牧の髪の毛を撫でた。
「今日の流れなんですが。カットをしてから、シャンプーとトリートメント、それからブローという感じでいいですか?」
「鳴海に任せるよ」
「カットはどんな感じにします?」
「それも任せる」
「わかりました」
普通ならこんな雑すぎる要望は美容師にとって非常に困るのだが、鳴海は牧の性格を知っているからか、二つ返事で引き受ける。
「じゃあ、前髪は少し斜めに流して。全体的に毛先を軽くして、襟足は短めって感じで大丈夫ですか」
「……鳴海の好きにしていいよ」
なんだか彼氏の好みに変えられていくみたいで、照れくさい。
少しでも長く鳴海に好きでいてもらいたいので、髪くらい、いくらでも自由に弄ってもらって構わない。
ハサミがチョキチョキと、耳元で鳴り始める。
切った毛の束が滑り台を降りるように、するするとクロスの上を通って床へ落ちていく。
鏡の中の鳴海は、相も変わらず自然なゆるふわウェーブの髪型で。まるでスパイラルパーマをかけたようにも見えるが、本人曰 く地毛だというから驚きである。
じっと穴が開くほど見つめていたら、鏡越しに鳴海と目が合った。
「牧さん? どうかした?」
「んー。やっぱ鳴海の髪いいなって思って」
「え――…」
「ちょっと、見惚 れてた」
牧が正直に感想を伝えると、鳴海のハサミを動かす手が一瞬止まったような気がした。
「……そういえば、牧さんて今コンタクトなんだっけ」
「あー、うんそう。家にいるときとか、花粉の季節とかは眼鏡で過ごしてるけど。目が痒くなるから」
「そっか。前にも花粉のアレルギー持ってるって言ってたね。カルテにも、そう書いてあるし」
鳴海は何かを思い出すような顔をして、納得する。
『リア充アレルギー』は無事克服できても、花粉だけはどうしようもなかった。あと3か月ほどしたら、きっとまたしばらく眼鏡生活だ。
――あれ? そういえば俺。鳴海に目が悪いこと、いつ話したんだっけ。
「カルテって、色んなことがわかるからいいよね。牧さんの下の名前とか誕生日とか、さっき初めて知ったし。俺、この店で働いてて本当に良かった」
「何言ってんの、鳴海。そんなん見なくたって、知りたいなら聞いてくれればいつでも教えるのに」
つき合っているのにおかしなことを言うものだと、牧は笑う。
「そっか。それもそうだね」
鳴海もようやくそのことに気づいたのか。
くしゃっと、はにかんだ笑みを見せた。
「……でもやっぱり、カルテがない店よりは全然いいよ」
後ろで、鳴海が何かを呟いたような気がしたが。
それはとても小さな声だったので、牧の耳まで届くことはなかった。
「牧さん。カットは終わったから、次はシャンプーとトリートメント行こうか」
足元に気をつけて、と鳴海に誘導されながら段差を登り、牧はシャンプー台へと寝そべる。
鳴海の美容室はアシスタントというものがなく、担当のスタイリストが最後まで仕上げてくれることになっているらしい。
顔に白いガーゼをかけられると、ハーブ系のアロマのいい匂いがした。
シャワーで髪を濡らされ、シャンプーの泡を纏った鳴海の手がシャカシャカとリズミカルに動き、頭全体が泡立って行くのがわかる。
「あー…。やべえ、すげー気持ちいい……」
力は強すぎず、かといって物足りなさもなく。
まるでマッサージでもされるように、頭皮を優しく揉みこまれていく。
「鳴海って、シャンプー上手だなぁ。……あ、美容師なんだから当たり前か」
顔は見えないけれど、鳴海がくすっと笑ったのがわかった。
褒めると、「ありがとうございます」と少し照れた声で返事が返ってきた。
「シャンプーなら、いつでもするんで言ってください」
「え、マジで?」
家でもプロにシャンプーしてもらえるとは、何たる役得。
しかし、自宅で洗髪となると風呂場でということになるだろうし、当然裸にもなるわけで。
――裸。
その単語を思い浮かべるだけで、つい先日の行為を思い出してしまい顔に熱がこもる。
ガーゼが被さってて良かった、きっと今すごく変な顔をしてるに違いない。
そして、鳴海も同じような想像をしたのか。
「牧さん……。その、この間はすみませんでした」
この間、と言われて牧は指先をピクリと反応させる。
ついにこの話題が来てしまった。
言いにくそうにしてるということは、やはり男とえっちなことをしたくないとか、男とつき合いたくないとか、そういうことを言おうとしてるのでは……と牧は心臓をバクバクさせる。
「な、何が…?」
「ごちそうになったのに、食器を片付けもしないで慌ただしく帰ってしまって……」
「……へ?」
食器? 言われてみれば、そうだったかもしれないけど。
ていうかそんなの別にどうでもいいし、今の今まで忘れてたくらいだ。
別れ話という最悪の展開にはならなかったようで、牧は肩の力が抜ける。
「なーんだ、そんなことか。俺はてっきり、もうあんな風に鳴海に触ってもらえないかと思っ……」
「触ってほしいんですか?」
「――え」
「なんか…。俺にまた触ってほしいみたいに、聞こえたんで……」
シャワーの水流の音が、ジャーと大きな音を立て続ける。
天井についているスピーカーから流れるジャズと、遠くで聞こえる客と美容師の笑い声が雑音となって重なる。
「さ、さうぇ…って………ほし…い、けど……」
かろうじて聞き取れるくらいの、小さな声を絞り出す。
シャンプー台の上は逃げ場がないのが辛い。
しかも、ちょっと噛んだ。死にたい。
足をジタバタさせたい衝動を必死で抑えて、代わりにガーゼの上から両手で顔を覆う。頼む。見ないでくれ。恥ずかしいから。
幸か不幸か、それから鳴海からの反応はない。
もしかして、シャワーの音にかき消されて聞こえなかったのだろうか。
牧は、ほっと安堵の息を吐いた。
トリートメントも終わったようで、ゆっくりとシャンプー台の角度を起こされる。
顔に被せていたガーゼを外されるが、なんとなく目を合わせるのが恥ずかしくて視界は床ばかりになる。
元いた席に戻ると、鳴海は「ちょっと待ってて」と一言残し、そのままどこかへ消えてしまった。
「…………」
そういえば、前にもこんな風にいなくなったことがあったような。
その時は鳴海が両手にお茶のペットボトルを持って戻ってきたんだっけ、といつかのデートのワンシーンを牧は思い出していた。
首を巡らせて店内を探してみれば、受付カウンターのところで他の美容師と何やら話をしているみたいだった。
足をぶらぶらさせながら待っていると、ようやく鳴海が戻ってきて、牧の髪のタオルドライを始める。
「牧さん。確認したら今日夕方に入ってた予約がキャンセルになったみたいで、俺、予定より早く上がれそうなんです」
「あ、へぇ…。そうなんだ…」
「なので、後で牧さんの家に寄ってもいいですか?」
「え?」
「ダメ、ですか」
「や…。ダメじゃないけど」
むしろ、嬉しい。嬉しすぎる。
けど、急になんで?
牧が頭の上に、疑問符を浮かべていると。
「――俺も、牧さんのこと触りたくなったので」
「……っ!」
鳴海が、耳元でそっと囁いた。
――さっきの、聞こえてたのか。
「じゃあ、ブローしますね」
鳴海がドライヤーを手に取って、コンセントを差し込んだ。
「あれ…? そういえば、いつもサービスで肩のマッサージとかしてるとか言ってなかったっけ?」
「してますけど…」
「俺まだ、されてないんだけど」
「……牧さんには、しません」
「ええっ。なんで」
「他の人に見せたくないし、聞かせたくないので」
「だから、何を――…」
「マッサージなら、あとで二人きりのときにするんで」
我慢してください、とだけ言われて。
そこから先はドライヤーの騒音にかき消されて、聞こえなくなった。
――どう、しよう…。
顔が熱いのは、きっとドライヤーだけのせいじゃない。
期待で、ドクンドクンと体が脈打つ。
触りたいって、言ってた。
もう一度、この間みたいに鳴海に触れてもらえる…。
今度は鳴海のも触って、舐めて、しゃぶって。
それから先のことだって――…。
帰ったらシャワーを浴びて、勝負パンツも用意して。
そうだ。ゴムやローションなんかも必要になるだろうし、帰りにドラッグストアへ寄って買い物もして来よう。
とにかく、万全の準備をしなくては。
いつの間にか、ドライヤーの音は止んでいて。
隣の席に新規の客が座り、店内はまた賑やかになる。
鏡の中に視線を送ると、見たこともないようなさらさらの髪がそこにあった。
あんなに傷んでいたのに…。美容師は、魔法使いみたいだ。
鳴海が手櫛をするように、髪に指を滑らせていく。
撫でられているみたいで、なんだか気持ちいい。
日が短くなったのか、いつしか窓の外は熟したオレンジのような色になっていた。
それは、今の牧の髪と同じようにきらきらと煌めいていて、とても綺麗だった。
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