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ラブ、つゆだくで #1

「牧さん。痒いところはないですか?」 ヘアサロンでよく聞くお馴染みのフレーズを、鳴海が慣れた口調で言う。 下積み含め、歴8年。 美容師ならこれまでに数え切れないほど言ってきた言葉だが、店のシャンプー台以外の場所で、しかも自宅の風呂場で口にするようになったのはここ最近のことである。 「んー、大丈夫」 お客さん役をしている牧の声が、湯けむりが立ち昇る小部屋に反響する。 鳴海の家のバスルーム。 ダークグレーの壁と床タイルで統一されたシックな空間の中に、据え置きタイプの白いたまご型のバスタブがひとつ。 横から見ると小舟にも見える浴槽に一人、牧はゆったりと足を伸ばして深く寄りかかっていた。 バスタブの縁から少し垂らすように出されたその頭は、ふんわりと真っ白な泡に包まれていて。 「あー…。やっぱ鳴海のシャンプーは、気持ちいいなぁ……」 牧が天井を仰ぎながら、ぽつりと呟く。 鳴海は牧の頭があるちょうど後ろ側に立っていて、仕事でするのと同じように、丁寧にシャンプーを施していく。 濡れないよう腕まくりをして、ズボンの裾もしっかりロールアップした格好の鳴海に対し、牧は湯船に浸かっていることもあって当然裸だ。 透き通った湯に沈むその白い肌は、観賞用かと思うくらい美しく。浴槽の外へすらりと伸びる素足なんか、何度見ても(つや)やかだった。 牧が家にやって来たときは、こうしてシャンプーをしてあげるのが恒例行事となっていて。 シャワーですすぎをする際に牧の心地よさそうな顔をこっそり盗み見る度、鳴海はそれだけで幸せを感じた。 交際を始めて、もうすぐ三ヶ月が経つ。 一時はすれ違いで不安な日々を過ごしたこともあったが、今では週の半分近くはどちらかの家に泊まるという半同棲のような生活を送っている。 鳴海が牧の家にお邪魔することもあるのだが、大抵は牧が鳴海のマンションに入り浸るという形に落ち着きつつあった。 同じワンルームでも広さが倍近くあることと、ベッドも元々ダブルサイズと大きいことから、大の男二人が寝泊まりする都合を考えると、より快適な環境に集まってしまうのはごく自然な流れだった。 鳴海宅のシャンプーがサロンでも使用している品質の良いものだというのも、理由のひとつでもあるらしい。どんな小さな理由でも牧が来たいと思ってくれるのなら、喜んで望むものを用意するつもりだ。 牧は時間がない朝は直接職場へ出勤していることもあるようで、鳴海の家には仕事の制服でもある『invisible(インビジブル) garden(ガーデン)』の服も何着か運び込まれている。 私服勤務可とはいえ、仕事中はなるべく店で販売しているものを着用しないといけないらしく、何を着てもいいわけでもなさそうだ。 しかし今シーズンの新作商品という制約はあるものの、トップス一点でも身につけていれば問題ないらしいので、牧は得意の着回しコーデで難なくやり過ごしているようだった。 「牧さん、明日って何か予定あったりする?」 「明日…? いや別に、何もねーけど」 風呂から出た牧に、鳴海は大きなバスタオルをかけてやる。 柔軟剤の香りがするふわふわのタオルが気に入っているらしく、気持ち良さそうに頬擦りする姿すら愛おしい。 「買い物に行きたいと思ってるんだけど。よかったら、つき合ってもらえませんか?」 「暇だし、買い物くらい全然いいよ。なに、何か買いたいものでもあんの?」 「仕事で着ていく服が欲しいので、それを牧さんに選んでもらえたらと思って」 「服か。それなら、専門分野だわ」 任せろ、と無垢(むく)な笑顔を向けられ。 鳴海はそんな牧を今すぐ抱きしめたくて堪らない衝動に駆られたが、必死で我慢する。 今日は仕事で疲れたと言っていたし、下手に体に触れて押し倒したくなったりでもしたら大変だ。 代わりに言葉で礼を言って、ルームウェアに着替えた牧をソファに座らせ、ドライヤーで髪を乾かしてあげる。 喉が乾いているかもしれないので、いつもブローの前にはミネラルウォーターも手に持たせている。 こうして甲斐甲斐しく世話を焼いてあげるのも、鳴海の楽しみでもあった。 最近は牧の髪のケアを鳴海がしてあげているのもありサラサラとした艶髪を保っていて、手櫛での指通りも滑らかで気持ちがいい。 くせ毛の自分のものと違い、針のようなストレートヘアはいつ見ても綺麗で、温風に揺らされると毛先が軽やかに踊った。 ドライヤーのスイッチをオフにすると、牧が後ろの鳴海を振り返り。 「そういやさ、どこで服買うの?」 「えっと。牧さんの働いてる店で買いたいと思ってるんだけど……」 「うちの?」 牧が意外そうな顔で聞き返すので、鳴海は慌てて取り繕う。 「あっ、ダメなら違う店でも……」 「ダメじゃねえけど。いつも仕事しながら鳴海と服一緒に選べたら楽しいなって、考えてたから。……ちょっと嬉しい」 頬がほんのりピンクに見えるのは、風呂上がりだからというだけではないのかもしれない。 この年上の恋人はいちいち可愛すぎるから、困る。 「鳴海、うちの店が入ってる駅ビルに行ったことがないって前に言ってたよな。だったらせっかくだし、周りの店とかも色々見て回るか」 デートだ、デート! と楽しそうに話す牧を見て。 鳴海は『ワンダー・キングダム』での出来事を思い出し、笑みを零した。 あの時は一日限定の恋人だったけれど、今では正真正銘の恋人同士だ。 冬がすっかり深まってからというもの、牧は寒いから外に出たくないと休日は家で過ごすことが多かったので、二人でお出かけするのは久しぶりかもしれない。 鳴海自身も胸の高鳴りを感じていると、洗面所に向かっていた牧がひょこっと顔を出し。 「ごめん。化粧水切らしてたのに、買うの忘れてたみたいでさ。今日は鳴海のやつ、借りてもいい?」 「もちろん。鏡の横にある戸棚開けたところに入ってるから、自由に使っていいよ」 今日だけと言わず、家にあるものは普段から勝手に使ってくれても構わないのだが。 そういった日用品を彼氏の家に置く行為がマーキングみたいでなんかイイと、日頃から私物を持ち込むことを好んでいたので、その辺は牧のやりたいようにさせている。 牧は時々強い独占欲をぶつけてくれるので、おかげで鳴海は「愛されている」と安心感を得ることが出来た。 「牧さん。化粧水の場所、わかった?」 様子を見に洗面所へ顔を出すと。 牧の手には、見覚えのあるチューブ型の容器がひとつ握られていて――…。 「へぇ。鳴海も、このハンドクリーム持ってたんだ?」 「……!」 その光景に目を大きく見開くと、その場で固まって動けなくなる。 しかしそんな鳴海の様子には気づかず、牧は植物のラベルがついた絵の具みたいな銀色の容器を、懐かしそうに眺めている。 「実は俺も一時期、同じやつ使ってたことがあってさ。保湿力高かったから気に入ってたんだけど、どこかに落としたみたいで失くしちゃって」 「そう…、なんだ……」 風呂上がりに牧がいつもかけている眼鏡をスキンケアをする都合で今は外していたようで、どうやら見えづらい棚の中を手探りで探しているうちに偶然見つけてしまったらしい。 奥にしまっておいたつもりだったが、油断していた。 鳴海の背中に、冷や汗がつうと伝う。 「あ、でもこれもう中身空っぽみたいだけど。捨てねーの?」 「…………入れ物のデザインが気に入っているので、取っておきたくて……」 「あー、確かにこれ限定品のやつだもんな。俺もあちこち探したけど、もう売ってなかった気がするし」 牧はぺたんこに潰れたシルバーのチューブを元あった場所へと戻すと、別の段にあった化粧水のボトルを見つけたのか、ようやく夜のスキンケアに取りかかった。 それ以降その使用済みのハンドクリームについて触れてくることはなかったので、鳴海は一人安堵の息を吐いた。 風呂から出て寝支度を調(ととの)えると、鳴海はそっとベッドに潜り込む。 先に入っていた牧の温もりを感じて、それだけで一日の疲れがどこかへ飛んでいくような気さえした。 寝る前に少しだけ、と柔らかい髪を優しく撫でると。牧の頭が薄闇の中で、もぞもぞと動いたのがわかった。 「牧さん…? ごめん、起こしちゃった……?」 先に寝てていいと伝えておいたので、てっきりもう寝ているのかと思いきや。 牧はうつ伏せのまま、とろんとした瞳だけをこちらに向け。 その唇からは、情欲に満ちた声が零れ落ちる。 「ねぇ、鳴海…。セックス、しよ……?」

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