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ラブ、おかわり #2
「鳴海の、元カレ……?」
あまりの衝撃に、頭が真っ白になり。
牧はただ相手の発言を、オウム返しすることしかできない。
「そっ。鳴海さんから、聞いたことない?」
言われてみれば、去年『ワンダー・キングダム』で知り合ったときにそんな話を聞いた記憶がある。
あの時は確か、つき合っていた相手と別れたばかりだという鳴海に、常連客のショーコが牧を女の子と間違えて紹介してしまって……という話だったような気がするのだが。
何か違和感のようなものが、牧の中で微かにざわつき始める。
「つき合ってた人がいたとは言っていたけど。……相手が男とまでは、聞いてない」
「じゃあ鳴海さんが元々ゲイだってこと、知らなかったんだ」
「鳴海が…?」
「子供の頃から、恋愛対象は男だったらしいよ。……あれっ? もしかしてマキさんて、前はノンケだったけど、最近になって性的指向が変わったクチ?」
「……」
「まぁでも、気持ちはわかるよ。鳴海さん、いい男だもんね」
鳴海の元恋人を名乗るこの男は、ニコニコと親しげに話しかけてはくるが、どこか棘のある言い方ばかりなのが気になった。
それにしても、さっきから何かが引っかかる。
確か『ワンダー・キングダム』で実際に会うまでは、紛らわしい名前のせいでお互いのことを女だと思い込んでいたはずだ。
もし鳴海が最初からゲイだというなら、なぜ相手が恋愛対象でない女だとわかっていながら、あの日デートへやって来たのだろうか。
ショーコに強引に誘われて、断れなかったとか?
ただ単に『ワンダー・キングダム』に行きたかっただけという可能性もありそうだ。
思えば、あの時「一人は寂しいから一緒に行こう」とやたら熱心に誘ってきたような気がするし、もしかしたら相手は女だろうが誰でもよかったのかもしれない。
それこそ、牧でなくても…。
――あれ。何でだろう。なんか、急に落ち込んできた。
「……マキさーん? 聞いてるー?」
男の声に、牧はハッとして顔を上げる。
いつの間にか相手の顔がすぐ近くまで迫っていて、その瞳が眼鏡のレンズの向こうから牧を捉えて離さない。
目を細めて笑っているように見えるのに、こんなに居心地の悪さを感じるのは初めてだ。
「つーか…。元カレ君は、何しに俺んとこに来たんだよ?」
わざわざ調べてまで会いにきた目的が未だにわからず、つい一歩後ろへ下がって距離を取る。
「やだなぁ、そんな怖がらなくてもいいって。鳴海さんがマキさんて男とつき合い出したっていうから、どんな人かちょっと顔を見に来ただけだよ」
「……本当に、それだけ?」
「なに。もしかして、今更鳴海さんを取り返しに来たのかと焦っちゃった? それはないから安心してよ。――厳密に言えば元カレっていうより、ただのセフレだしね」
「えっ…」
「セックスフレンド。要するに、体だけの関係ってやつだよ」
セフレ。体だけの関係。
あの誠実な鳴海とは無縁そうな単語が飛び交い、牧は一瞬混乱する。
「あ…っ。だから前に別れた理由を訊いたとき。元々相手のことが好きだったわけじゃないとか、妙な言い方してたのか……」
以前の会話を思い出し、ぽつりと牧が呟くと、男はピクンと片眉を持ち上げた。
あれ? なんか今、急に表情が険しくなったような…。
「へぇー。鳴海さん、そんなこと言ってたんだ? ……別れた理由、他に何か言ってなかった?」
「えっと、確か…。鳴海の『好き』が重すぎたからとか、なんとか……」
『好きじゃない』と『好き』。
真逆の言葉を同時に使った理由を、交際を始めて4ヶ月経った今でも教えてもらえてなくて、結局その意味を理解できないままでいる。
すると元カレ改め、元セフレの男は突然腹を抱えながら笑い出した。
「ふ、ふふ……。アハハハハ……ッ!」
「……っ!?」
あれ。今の話で、笑えるポイントなんかあったっけ。
驚く牧の前で、ひとしきり笑い終えると男は。
「…………あー。マキさんから聞かされると、なんかムカつく」
嫌悪と笑顔がぐちゃぐちゃに混ざったような。
歪んだ表情で、静かに言った。
それまで見せていた顔と違い、明らかな敵意を剥き出しにされたような気がして、思わず背筋がゾッとした。
「ねぇマキさん…。何も知らないみたいだから、いいこと教えてあげるよ。そもそも、なんで僕が鳴海さんとそういう関係になったと思う?」
「……」
返事をしない牧を無視して、男はそのまま喋り続ける。
「僕が、鳴海さんの好きな人と背格好が似てたからだよ」
「鳴海の…、好きな人……?」
「そう。鳴海さんにはね、何年も前から片想いしてる人がいるんだって。それでその人に似ているらしい僕が代わりに、鳴海さんの寂しさを埋めてあげてたってわけ」
「嘘、だ…。そんな話、鳴海から一度も聞いたこと……」
「そりゃあ、言えるわけないよ。だって牧さんも、その人の代用品なんだから」
「え…」
「鳴海さん。その人のこと、今もまだ好きなんじゃないかな? 去年、僕に別れを告げる時も『まだ忘れられない』って言ってたし」
鳴海が、まだその人のことを好き……?
けれど、それを聞いて今まで不透明だった言葉の意味がやっとクリアになる。
『好き』が重すぎて別れたというのは、片想いをしてる人を未だに想っているということならば、腑に落ちる。
謎が解けてスッキリするところなのに、素直に喜べない。それどころか、知りたくなかったとさえ思えてきて、今すぐ耳を塞ぎたくて堪らなくなった。
「可哀想に。マキさん、騙されてたんだね。鳴海さん、ああ見えて結構むっつりスケベだから、えっちなこともたくさんされたんじゃない? でも勘違いしちゃダメだよ、マキさんは本命の人に似てるから抱かれてるってだけなんだから」
あくまでも鳴海は牧のことが好きで抱いていたわけではないのだと言われ、一気に足元の地面が崩れ落ちていくような不安に駆られる。
たくさん、好きって言葉を鳴海に貰った。
けれど、その言葉は本当は別の奴に向けて言っていたとしたら…。
何年も前からってことは、あの日『ワンダー・キングダム』で自分と出会うずっと前から、その人に惹かれていたということだ。
血の気が引いてどんどん顔が青ざめていく牧の様子を見て、なぜか男は楽しそうにくすくす笑っていて。
……違う。鳴海は人を騙したり、隠し事をするような人間なんかじゃない。
こんなやつの言うことなんか、信じるものか。
牧は、自身の拳をぎゅっと力強く握りしめた。
「……もう、いい」
「ん?」
「見ず知らずのお前の言うことなんかより、俺は鳴海のことを信じる…。だから、もう帰ってくれ」
はっきりと言い切る牧を、男は「へぇ」と意外そうな顔で見つめる。
「なんだったら、鳴海さんに直接聞いてみるといいよ。有島 から全部聞いたって言えば、向こうもわかると思うから」
それから有島と名乗る男は「せっかくマキさんのためを思って忠告してあげたのになー」と、わざとらしく溜め息をついた。
「何が俺のためだ。もう、鳴海にも近づくな」
「へー、まだ彼氏ヅラするつもりなんだ? 向こうはただのセフレとしか思ってないのにね」
「うるさい。早く帰れ」
「心配しなくても、こんなダサい店もう二度と来ないよ。就職の関係で、どうせ来週には東京に引っ越すしね」
本当に最後の挨拶ってやつだよ。
そう言って、有島は出口へ向かって歩き出す。
途中、立ち止まって顔だけ振り返り。
「ま、せいぜい期間限定の恋人ごっこでも楽しんでよ。――鳴海さんが、本当に好きな人と再会するまでの間だけだけど」
背中を向けたまま手をひらひらと振って、そして再び歩き出した。
牧は有島の姿が見えなくなった後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。
頭の中がぐるぐるとかき混ぜられたみたいにぐちゃぐちゃになって、落ち着かない。
「クソ。何なんだよ、もう……」
汚い言葉を吐き捨てていると、ちょうど牧のところへ店長が通りかかる。
「あれ? なんだ、さっきのイケメンもう帰ったのか」
イケメンなんかいたっけ、と一瞬考えて、有島のことを言っているのだとすぐに理解する。
「なんか雰囲気が似てたから、てっきり牧の兄弟かと思ったけど。よく考えたらお前ひとりっ子だったな」
「ハァ? 似てるって…、どこが!?」
「うーん、どこがと言われても…。身長とか、体格とか? それにお前、今は黒髪ブームだっつって、昔あんな風に頭真っ黒だったときもあっただろ」
似てると言われるところが、本当に外見的特徴だけのようで少しほっとする。
自分もよくデリカシーがないと散々言われたものだが、さすがにあそこまで人の心にズカズカと土足で踏み込んでいくような無神経さはない。
「あ。あと二人とも眼鏡かけてるしな」
「いや。俺が眼鏡かけてんのは、花粉の季節だけだし…」
そんな期間限定的なことまで類似項目に挙げられたのでは、堪らない。
「そんなに似てるかなぁ…」と牧が深い溜め息をつくのを、店長は珍しく真剣な面持ちでじっと見つめて。
「……まぁ、どんなに嫌な客が来ようと、まずは笑顔だ、笑顔! あんま態度悪いとクレーム来たりするから、気をつけろよー」
ハハハ、と笑いながら牧の背中を力いっぱいバンバン叩いてくる。地味に痛い。
「つか、あんなん客じゃないですよ。うちの店のこと、ダサいって言ってたし」
「なにっ、それは許せないな。おい牧、塩まいとけ塩!」
「ないですよ、そんなもん…。うち、服屋なんで」
「それじゃあ、今から地下の食品街で買ってきてくれ。金は渡すから」
「えっ、嫌ですよ。あそこいつも混んでるし、遠いし…」
「なら、お前がこの間化粧水買ったっていう5階の店。あそこにバスソルト売ってるだろ、それでいいから」
「バスソルトなんか店に撒いたら、怒られますよ。それに、あのオーガニックの店のバスソルトは500円じゃ買えないし」
「じゃあ、追加で千円出す! これで足りるだろう!」
「いや、だから買ってどうするんですかって話で」
「そんなもん、俺が風呂入るときに使うに決まってるだろう! ハハハッ」
「ええ…っ。まく用じゃなかったのかよ…」
結局、『お清めの塩』ならぬ『お清めのバスソルト』を店長命令で無理やり買いに行かされることになり。
牧はぼんやりと考え事をしながら、エスカレーターを上る。
さっきの話。あいつがセフレだったって話は、本当なんだろうか。
それに、鳴海には密かに想い続けている人がいるということも…。
有島が鳴海と関係を持つようになったという理由が、繰り返し頭の中でリピートされる。
――僕が、鳴海さんの好きな人と背格好が似てたからだよ。
気にしないようにすればするほど、不安な考えが追いかけてくる。
自分と有島の見た目が似ているというなら、牧もまた鳴海の想い人に似ていることになる。
――だって牧さんも、その人の代用品なんだから。
有島のことは信用していないのに、なぜかその言葉は凶器のように突き刺さる。
代用品。
……鳴海は自分を通して、ずっと別の誰かを見ていたのかな。
店長に持たされた千円札を、牧は手の中でクシャッと握りしめた。
「あー、それにしても。あの有島ってやつ、いちいち嫌な言い方しやがって。ムカつく…」
顔を思い出しただけでも、イライラする。
鳴海も、いくらあいつが好きな人に似ているからって、あんな性格の悪そうな奴と体の関係を持たなくたっていいのに。
そうこうしているうちに目的地である5階に到着し、少し歩けば以前化粧水とハンドクリームを購入した店に辿り着く。
相変わらず良い匂いに包まれていて、それだけで緊張が少し和らいだような気がした。
目当てのバスソルトを見つけ、ひとつ手に取る。これで使い走りは終わりだ。
レジへ向かう途中、鳴海にプレゼントしたハンドクリームが以前と同じ棚に並んでいるのに気がついて。
……あの時喜んでくれた笑顔も、もしかして偽物だったりしたんだろうか。
一滴の水が、紙に垂らされたように。
記憶の中にいる鳴海の優しい顔が滲んで、見えなくなっていく。
「おかえり牧。早かったな」
「ちゃんと買ってきましたよ、カモミールのバスソルト。ったく、なんで香りの指定まで…」
ボトルに入った天然塩のバスソルトを「はい」と店長に差し出す。
ハーブ精油を使用しているそれは、ほんのりとリンゴのような匂いを漂わせていた。
「あー、よく考えたら俺、シャワー派だから入浴剤使わないんだったわ。だからそれ、お前にやるよ」
「えっ」
わざわざ買ってきたのに受け取ってもらえず困惑する牧に、店長が穏やかな声で言う。
「カモミールは鎮静効果があるから、不安や心配事があるときなんか、リラックスできていいらしいぞ」
確かに、この香りを嗅ぐと落ち着く。
もしかして、さっき元気がなかったから気を使ってくれたんだろうか。
「ありがとう…ございます。……あ、これお釣り…」
「いらねーよ。おつかいの駄賃だ、取っとけ」
似合わないウインクをして、店長は仕事に戻っていった。
牧は小銭とバスソルトをそれぞれ両手に持ったまま、その場に一人取り残される。
「俺も、そろそろ仕事戻らないと……」
だけど、その前にもう少しだけ。
ボトルから漏れ出す、このカモミールの優しく甘い香りに包まれていたかった――…。
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