34 / 47
ラブ、おかわり #4
「お疲れ様です、土田さん」
「おー、鳴海くん。お疲れ。今、仕事の帰り?」
「あ、はい。……あの。牧さん、いますか?」
「牧なら今ちょうど上がったところだから、そろそろ出てくると思うけど…。今日は、うちの店で待ち合わせしてたんだ?」
「いえ、そういうわけじゃ……。土田さん、ちょっと聞いてもいいですか?」
「うん?」
「牧さんの、ことなんですけど…。最近、仕事してる時、何か変わった様子はありませんか?」
「仕事中の牧? ……いや、別にいつも通りだと思うけど?」
「そう…ですか」
「去年の忘年会のあたりだったか、鳴海くんに会いたいって落ち込んで、まったく使い物にならない時もあったけど。最近は仕事に精を出してくれてるみたいだから、助かってるよ。鳴海くんが仲良くしてくれてるおかげかな?」
「……仲良く…って、言えたらいいんですけど…」
「いやいや。あいつ、世界が鳴海くん中心に回ってるとこあるし。……あー、でも最近、妙に仕事に打ち込みしすぎな気もしないでもないかな? 空 元気、って言うのかな。無理して笑顔つくってるんじゃないかって思うときが、何回かあったかなぁ」
「…………」
「あ、ほら。噂をすれば…」
土田が指差す方向を振り向くと。
鳴海の視線の先に、帰り支度を済ませた牧の姿があった。
音楽を聴いているのか、ヘッドホンをつけながらゆっくりと歩いていて。
「おーい、牧! 鳴海くん、迎えに来てくれてるぞ!」
「え、何。つっちー、今なんか言った?」
土田の声に反応した牧が、頭からヘッドホンを外す。
同時に、『invisible garden 』店舗出入口に立つ鳴海の存在を初めて認識して。
「鳴海…? えっ、なん…で……」
まるで幽霊でも見るかのような顔で、その場に立ち尽くす。
本来なら嬉しいサプライズであるはずなのに、牧は手放しで喜ぶことはできなかった。
――ずっと会いたかった鳴海がいる。……でも、今は会いたくなかった。
複雑な感情が混ざり合って、ただショルダーバッグのベルトを胸の前でぎゅっと握りしめることしかできない。
いつもと違う空気を漂わす二人を、土田は心配そうに見つめていて。けれど、横から口を出すような野暮なことはしなかった。
動揺を隠すのに精一杯ですっかり口を閉ざしてしまった牧を、鳴海は真剣な顔で見据えた後。
それから。ふう、とゆっくり息を吐いた。
「……今から、少し話せませんか?」
鳴海に連れて来られたのは、駅ビル1階にあるカフェで。
有名なコーヒーチェーンの店というだけあって、こんな夕飯時の時間帯でも思ったよりも店内は盛況の様子だった。
一人用のソファが向かい合うテーブル席に座れば、これから個人面談でもするかのような気分になって。ソファの座り心地はいいのに、居心地は酷く悪かった。
真ん中の丸いテーブルには、鳴海が購入してくれたドリンクが二つ。牧にはホットチョコレートを選んでくれて、鳴海のほうはソイココアという豆乳を使用したココアにしたらしい。
コーヒーとは無縁の生活を送る牧は普段こういったカフェには近寄らないようにしていたが、大好きな飲み物も販売されていたと知って安心する。
「とりあえず冷めないうちに飲もうか」と鳴海が言うので、同じタイミングで紙コップに口をつける。
ホイップとチョコレートソースのかかったそれはとても甘くて、美味しくて。そういえば前に『ワンダー・キングダム』でデートしたときもココアを買ってきてくれたことがあったっけ、と懐かしさを覚えた。
もう三月下旬だというのに今日はやけに冷え込んでいることもあって、手に持っているだけでも温かい。
それまで固かった牧の表情が少し緩むのを見て、鳴海は持っていたカップをそっとテーブルに置いた。
「牧さん」
名前を呼ばれ、思わずビクッと肩を震わせる。
緊張の色を顔に宿せば、鳴海は悲しそうに眉尻を下げた。
「……俺、何か嫌われるようなことをしてしまいましたか」
「え…」
まっすぐな眼差しに射抜かれて、一瞬、金縛りにでもなったかのように動けなくなる。
「それとも、知らないうちに牧さんを怒らせるようなことをしたのかな……? もしそうなら謝りたいし、悪いところはちゃんと直すように努力するので。何がダメだったのか教えてくれませんか」
その口調は決して咎めるものではなく、どちらかというと必死さが滲み出ているようで。
あまり見たことのない鳴海の悲痛な表情に、牧は戸惑うと同時に、気まずさを感じずにはいられなかった。
「別に…。怒ってるわけじゃ……」
「じゃあ、なぜですか? どうして、俺を避けるんですか?」
「……っ」
言われて、牧は言葉を詰まらせた。
事実、ここ数日は鳴海と会うのを故意に避けていたところがあったからだ。
「この間会ったときから、なんか牧さんの様子がおかしいとは感じてたんだ。前も、牧さんが俺のことで悩んでいたときにこうやって避けられたことがあったけど。でも土田さんに聞けば、今回は仕事中特に変わったところはないって言うし。俺、わかんなくて……」
鳴海の声が徐々に小さくなっていき、俯いた顔に影を落とす。
いつもキラキラとしたオーラを放つイケメンの鳴海が、こんなにも落ち込んでいる姿を見せるのは初めてかもしれない。
自分の心が未熟なせいで、鳴海に嫌な思いをさせてしまった。
もう逃げるわけにもいかないと、牧は覚悟を決めた。
「避けたのは、ごめん。ちょっと、気持ちを整理する時間が欲しかったんだ……」
やっとまともな牧の言葉が聞けたからか、はっと鳴海が顔を上げる。
「気持ちの整理、って…?」
「…………」
まだ頭の中でごちゃごちゃしているものだから、何と言って切り出せばいいのか牧は迷う。
何度かホットチョコレートを口へ運んで、その度に「えっと」とか「その」とか一生懸命続く言葉を探している牧を、鳴海は急 かすことはせずに、ただ静かに待ってくれている。
「あの、さ……。この前さ、店に嫌な客が来たって話したじゃん?」
「うん」
「そいつの名前、有島っていうんだ」
「――え」
その名前を出した瞬間。
鳴海が目を丸くして驚愕の表情を見せたのを、牧は見逃さなかった。
「その反応…。あいつが言ってたことは、本当だったんだ」
「有島、って……、まさか」
「そうだよ。鳴海が、前につき合ってたっていう男。体だけの関係だったって、言ってたけど…」
「…………有島から、何か言われたんですか?」
「全部、聞いたよ。鳴海が何年もずっと片想いしてたことも、有島が好きな人に似てたから関係を持ったってことも」
そこまで言うと、鳴海はわかりやすいくらいに動揺した。
それから、片手で口元を覆って視線を牧から逸らす。それは鳴海が恥ずかしかったり照れたときによくやる仕草だということを、牧は知っていた。
「そうか……。もう全部、牧さんに…知られちゃったんだ……」
そう言うと、見えている顔半分の部分がみるみるうちに朱色に染まっていく。鳴海の顔色は、青くなったり赤くなったりと忙しい。
……ん?
ていうか、なんでこの流れで照れる必要があるんだ。むしろ言い訳のひとつやふたつ並べて、弁解くらいしてくれたっていいのに。
少しは修羅場になるんじゃないかと心配して今まで気後れしていたが、予想外の反応すぎて牧はまだ頭がついていかない。
心なしか嬉しそうにすら見えるのは、もう隠し事をしなくて済むという解放感からなのか、それとも…。
――鳴海さん。その人のこと、今もまだ好きなんじゃないかな?
有島の言った言葉が、牧の心を深く抉 る。
しかし、まだそうだと決まったわけじゃない。
けど、聞くのが怖い。
「……なぁ、鳴海」
ダメだ。それ以上、言ってはいけない。
その質問をしてしまったら、きっと魔法が解けてしまう。
わかっているのに、止まらなくて。
「何年もずっと同じ人を想い続けてたってことは。今もまだ、そいつのことが好きなのか……?」
ああ。ついに、訊いてしまった。
心のどこかで、そんな奴より鳴海は自分のことを選んでくれると、期待していたところもあったのかもしれない。
鳴海が牧をじっと見つめて、数回瞬 きをする。
頼む。お願いだ。違うと言ってくれ。
「――はい。好きです……」
鳴海が、はにかんだような笑顔で、はっきりと答えた。
その表情は、ほわっと柔らかくて。温かくて。幸せそうで。
それを目の当たりにした瞬間。
牧は、妙に吹っ切れた気持ちになった。
強い麻酔薬でも打たれたかのように、何も感じない。
「そうか。わかった」
短い返事だけして、ゆっくりと立ち上がる。
「牧さん…?」
不思議そうに牧を見上げる鳴海に向かって。
何の感情も出さずに、ただ淡々と言い放つ。
「俺たち、別れよう。鳴海」
「え?」
鳴海は、何を言われたのかわからないといった顔をしている。
だって、こうするしか方法はないじゃないか。
鳴海が本当に好きな人と幸せになるには、まがいものの自分は邪魔でしかなくて。
どの道いつかは消えなくてはならないのなら、早いほうがいい。
そう。傷が、もっと深くなる前に。
「今まで、俺なんかとつき合ってくれて。ありがとうな」
最後に、強がりで笑ってみせた。
ちゃんと笑顔をつくれているかは、わからない。
それから。
茫然自失としている鳴海と、飲みかけのホットチョコレートをテーブルの上に残したまま。
牧はその場から逃げるように走り出した。
「待って…! 牧さんっ! 牧さんてば…!」
鳴海の叫び声と、階段をカンカンと駆け上がってくる大きな音が背後から聞こえてくる。
よく考えたら、逃げたところで追いつかれるのは当然のことだった。鳴海の家へ行くことがなくなった今、牧が帰る場所はもう自宅の一箇所しかないからだ。
アパート2階の廊下を追ってくる鳴海を振り返って一瞬怯 むが、牧はそのまま無視して玄関の鍵を開ける。
急いでドアを開けて、家の中へ入ろうとしたところへ。鳴海が、牧の腕を強く掴んだ。
「ハァ…、ハァ…。牧さん、足、速すぎ……ッ」
やっと追いついた、と鳴海が息を切らしながらその視界の中に牧を閉じ込める。
ドアを閉めようにも取っ手を持つ手を制止させられた上に、扉ももう片方の手でしっかりと押さえられているため、八方塞がりとなってしまう。
牧もここまで全力で走ってきたので肩で息をしていて、疲れ切って抵抗する力も残っていなかった。
「……離せよ」
「別れるって、何。どういうこと……?」
鳴海が、声を震わせながら迫る。
どういうことかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。
せっかく人が身を引いて、きれいに別れてやろうとしたのに。こんなところまで追いかけてきたら、台無しじゃないか。
手首が、鳴海に掴まれたところだけ熱い。
もう触れられることなんてないと思っていたから、こんな些細な感触ですら名残惜しく感じてしまう。
「牧さん…」
鳴海に名前を呼ばれる度、胸が締めつけられそうになる。
これ以上そばにいたら、離れるのが段々辛くなって、決心が揺らぎそうで。
牧はギリ、と爪が食い込むほど強く自身の拳を握りしめ。
そして。
「ごめん、俺…。もう鳴海の顔、見たくない……」
嘘の言葉を、絞り出す。
その刹那 。
「――…」
鳴海の瞳から、色が消え。
それきり口を噤 んで、だらんと力無く腕を下ろした。
切なそうに顔を歪めて、ただ牧を見つめるだけで。一人だけ時間が停止したみたいに、呆然と立ち尽くしていた。
スローモーションのように、ゆっくりとドアが閉まっていき。やがて、鳴海の姿が見えなくなる。
バタンという音がすると同時に。
牧は扉に寄りかかるように、ずるずると玄関にへたり込んだ。
「あ、あ……ぁ…」
終わった。
これで、鳴海とはもう――…。
「……っ」
今まで抑えていた感情が、一気に溢れ出てきて。
牧の双眸から、涙がぽろぽろ零れ落ちる。
鳴海に触れられた部分は、まだ熱を残していて。
その熱を逃さないように、手のひらでそっと包み込んだ。
電気をつけるのも忘れて。
暗闇の中で、ただひたすら涙が枯れるまで。
声を押し殺して泣き続けた。
ともだちにシェアしよう!