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ラブ、おかわり #5

あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。 泣き疲れて、何もする気が起きなくて。 牧は部屋の電気だけつけると、上着も脱がずにそのままベッドへと倒れ込んだ。 つい最近ニュースで桜の開花が発表されたばかりだというのに、今夜は一段と冷え込んでいてまるで冬に逆戻りしたみたいだった。 残寒に体を震わすも、ローテーブルまでエアコンのリモコンを取りに行く気力も湧かなくて、仕方なく毛布にくるまり丸くなる。 「…………」 こうしてベッドに入っていると、鳴海がよく後ろから抱きしめて温めてくれたのを思い出す。同じ布団の中で二人でじゃれ合って、キスして、それから――…。 牧は、そっと手のひらでシーツを撫でてみる。今は隣に鳴海の温もりはなく、そこはひんやりと冷たい。 数か月前までは毎日一人で寝るのが当たり前だったというのに、今となっては鳴海といた時間のほうが長く感じるから不思議だ。 けれど。 さっき涙をすべて出し切ってしまったからだろうか。もう、悲しみも何も感じない。 体の中の重要なパーツがごっそりとなくなって、空っぽになった気分だ。 抜け殻のように、ただ虚ろな目でぼーっと真っ白な壁を眺め続ける。 夕飯をまだ食べていないことに気づいたけれど、なんだかお腹も空かなくて。感情なんてものはどこかへ行ってしまったみたいに、すべてがどうでもいい。 きっと、今まで長い夢を見てたんだ。 目が覚めたら、鳴海のいなかった世界に戻れて全部忘れることができるかもしれないと、不貞寝(ふてね)することに決めた。 「あ…。電気……」 部屋の電気をつけっ放しにしていたことに気がつくが、今更立ち上がるのも面倒だった。 完全に無気力状態になった牧は、もうこのまま朝まで眠ってしまおうとゴロンと寝返りを打つと。脇腹のあたりに、何か硬いものが当たる。 そういえばまだ上着を着たままだったと気怠げにポケットを探ると、中には普段使っている財布が入っていて。 脱ぐのも億劫なので、ひとまず財布だけをベッドサイドの台に置こうとした瞬間。 チャリン、と金属音が零れ落ちた。 「やべ、小銭でも落ちたかな……」 こんな時でも体が反応してしまうのが、貧乏性の本能というやつらしい。 反射的に転がるそれを手に収めて見てみれば。 そこには、見覚えのある銀色の硬貨が一枚。 「これ……。ワンキンのクエストで貰った…」 それは、去年の初冬。『ワンダー・キングダム』で行われているクエストの景品として受け取った、記念メダルだった。 御守としていつも財布の中に入れて持ち歩いていたのだが、雑に扱ったせいもあって運悪く飛び出してしまったらしい。 表には(わし)が翼を広げているデザインが、そして裏には『ワンダー・キングダム』のロゴが刻印されているそのメダルは、鳴海と二人であちこち歩き回って苦労して手に入れた思い出の品で。 「…………」 牧が指先でメダルをくるくると回転させれば、初めて鳴海と出会った日の記憶が甦る。 お互い名前のせいで女の子に間違えられて紹介されて、それから鳴海にデートしようと誘われて。一緒に過ごすうちに友達じゃ物足りなくなって、一日限定の恋人になってもらったりもした。 牧が、鳴海を好きになった日。 そして、二人の関係が始まった日でもある。 忘れるわけがない。 「そうだよ……。忘れられるわけ、ないじゃんか…………」 (せき)を切ったように、鳴海と過ごした日々の思い出が次々と溢れ出て来て。 「鳴海」と愛しい人の名前を口にすれば、一粒の雫が頬を伝う。 「あれ…、おかしいな。もう涙は全部、出し切ったと思ってたのに……」 自分から別れを告げておきながら、失恋したみたいに引き摺って。みっともない。 メダルを握りしめた手で、ゴシゴシと目元を(ぬぐ)う。 好きな人がいるかなんて、聞かなければ良かった。 そうすれば、もう少しだけ仮初めの恋人として鳴海のそばにいられたかもしれないのに。 「本当。俺ってバカだ……」 相手が別の人間を好きだとわかっていながら、まだ好きでいるらしい。 もう一度、鳴海の腕の中に抱きしめられたいなんて、そんな欲望すら捨て切れずにいて。 「……鳴海に、会いたい…」 最後に鳴海に言ったものとは真逆の言葉が、自然と零れ出る。 なんで、顔も見たくもないだなんて大嘘をついてしまったんだろう。 一番新しい記憶の中にいる鳴海の顔は、すごく傷ついた表情をしていて。牧が拒絶したときの鳴海の反応を思い出して、胸がズキンと痛む。 酷いことを言ってごめん、と今からでも謝りたい。 そう思い立って牧は咄嗟に放置していたスマホを掴むが、通知が一件も来ていない画面を見て即座に落胆する。 当たり前だ。あんなケンカ別れみたいな形にしてしまったくせに。どうして今、連絡が来ていることを一瞬期待してしまったんだろう。 気持ちが冷めるどころか、嫌われたっておかしくないのに。 はぁ、と深い溜め息をついて、スマホを持った手をゆっくりと下ろす。 ……やめよう。 せっかく鳴海のために身を引くと決めたばかりなのに、未練がましく電話なんてかけたところで余計に辛くなるだけだ。 そう自分に言い聞かせて牧が目を閉じかけると。 突如、窓の外からパラパラとけたたましい音が聞こえてきて。一拍遅れて、それが雨音だと理解する。 今まで気にも留めていなかったが、随分前から雨が降っているような気配は何となく感じていたので、その雨足が急に強まったのだろうと納得した。 今朝の天気予報では降水確率30%と言っていたのに、予報は当てにならないと視線を窓へと向ける。 ――雨? 「…………ちょっと待て。雨って、いつから降ってたっけ?」 ついさっき鳴海と玄関で別れたときは、確かまだ曇り空だったはずだ。 朝の時点では天気予報に雨マークはついていなかったから、当然鳴海も傘を持っていなかった。 牧は、ガバッと起き上がって時計を確認する。最後に鳴海と話をしてから、優に一時間は経過している時刻だった。 普通だったらとっくに鳴海の家に到着している時間だが、もし途中で雨に降られて身動きがとれなくなっているとしたら。 「どうしよう…。鳴海、くせ毛なの気にしてるから、水に濡れるの苦手なんだよなぁ。つか、こんな寒い中濡れて帰ったら、風邪引くんじゃ……」 不意に鳴海の困っている顔が脳裏をよぎり、牧は心配で堪らなくなって。 「家に無事着いたかどうかだけ、確認するか……? いや、でも今はもう彼氏でも何でもないわけだし、ウザがられるだけかも……」 うーん、と唸り声を上げながら部屋の真ん中をうろうろと歩き、行ったり来たりを繰り返す。 「声を聞くだけでも…」とスマホの画面をつけてみるが。なかなか勇気が出なくて、結局電話は諦めることにした。 ……はずだったのに。 「…………って、ああああっ!?」 画面を消そうとしたら、誤って発信ボタンに指が触れてしまい。 「わっ、ちょ、待っ……!」 慌てて電話を切ろうと試みるが。 呼び出し音が鳴り始めると同時に相手に繋がって、すぐに通話中の表示に切り替わった。 『はい』 「――…!」 ……鳴海、出るの早すぎ! 牧は頭の中で絶叫した。 『牧…さん……?』 牧が固まったまま何も話さないものだから、電話の向こうから鳴海が名前を呼ぶ。 それだけで、胸の真ん中のあたりがじんわりと温かくなっていくのがわかって。 ……やっぱり、鳴海の声を聞くと落ち着く。 ドキドキとうるさい鼓動が徐々に穏やかなリズムに変化していくのを感じながら、牧はおずおずと口を開いた。 「あ、あのさ……。鳴海、もう家に着いた……?」 …………。 なんで第一声がそれなんだと、小一時間自分を問い(ただ)してやりたい。 まずは「さっきはごめん」と謝りたかったのに、頭が真っ白になってしまった。俺のバカ。 『いや、まだ家には……』 鳴海が、声に戸惑いの色を乗せて答える。 思ったとおり、鳴海はこの雨のせいで帰れずにいるらしい。 牧は急いで玄関へ向かうと、スマホを耳に当てながら靴を履く。 「鳴海、どこかで雨宿りしてるのか?」 『してると言えば、してる……のかな。ここ、濡れないし…』 あれ。今、外で人の話し声がしたような気がしたんだが。 ……気のせいか? 「俺、これから傘持ってそっち行くから。場所教えて」 『え…、場所……?』 「うん。鳴海、今どこにいる?」 『えっと、今……』 傘を一本掴んで、ガチャンと玄関の扉を開けると。 『「今、まだ牧さんの家の前…に……」』 電話の声と、鳴海の肉声とが二重に耳に届く。 声のした方向、足元に視線をやれば。 「……え? な、鳴海……!?」 アパートの廊下で小さく体育座りをして、(うずくま)っている鳴海を発見する。 「なんで、まだ俺ん家の前にいんの? もしかして、あれからずっとここにいたのか……?」 牧が愕然としていると、鳴海はあからさまに気まずそうな顔をして。 「その。少しでも、牧さんのそばに居たくて……」 「だったら――…」 家の中に入ればいいのに、と言いかけて。 自分がついた嘘のせいで鳴海をこんな場所に追いやってしまったのだと気づいて、言葉に詰まる。 「……こんなストーカーみたいな真似して、気持ち悪いよね。ごめん」 鳴海が力無く微笑(わら)って、立ち上がる。 「俺の顔なんて見たくないだろうし、もう帰るね」 「え……」 「傘は、近くのコンビニで買って帰るから心配ないよ。ありがとう」 牧の目を見ずにそう言うと、鳴海はアパートの階段の方へ向かって歩き出す。 「ま…待って、鳴海…っ!」 横を通り過ぎる鳴海の手を咄嗟に掴めば。 その手は、氷のように冷たくて。 「鳴海の体…。こんなに冷えて……?」 考えてみれば当然のことだ。こんな寒空の下に、一時間もいたんだ。 慌てて鳴海の顔を見上げれば、暗がりでもわかるくらいに顔色が悪くて。 ――俺の、せいだ。 牧は唇をきゅっと噛みしめると。 そのまま鳴海の手をぐいと引っ張って、自分の家の中へと強引に連れ込む。 「え……? まっ、牧さん…?」 訳が分からずただ目を丸くしている鳴海をベッドに座らせ、毛布を頭から被せてぐるぐる巻きにしてやる。さっきまでずっと使っていた毛布だから、きっとまだ温かいはずだ。 暖房もつけるが、なかなかすぐに部屋が暖まらない。なぜ今までつけていなかったんだと、自責の念に駆られる。 それから牧はバスルームへ向かうと、湯船にお湯を張って風呂の用意をする。 以前店長に貰ったバスソルトが手付かずであったことを思い出し、それを開封して大雑把に浴槽にぶち込んでいく。適量なんて知らない。 部屋に戻ると、鳴海は大人しく毛布にくるまっていて。 さっきよりも少しだけ顔色が良くなったような気がして、牧は息をついた。 「風呂、そろそろ沸くと思うから」 「あ……。うん」 バスタオルの準備をしていると、鳴海から穴があくほどの視線を感じて。 「……な、何?」 「えっと…。牧さんが、優しいなって思って……」 「何だよ、それ。まるで普段の俺は優しくないみたいじゃんか」 「あ。いや。そうじゃなくて……」 困惑する鳴海にタオルと着替えを押し付けて、背中を押してバスルームへと追いやる。 「ま、牧さん…? あの、俺……」 「いいから。早く体、風呂であっためて来い」 扉を閉めると、観念したのか。 しばらくすると水音が聞こえ、鳴海が入浴をする気配がしてきた。 久々に聞く人の生活音に心地良さを感じながら。 牧は、聞こえないと知りながらバスルームの扉に向かって呟いた。 「やっぱり俺、鳴海のことが――…」 それはとても小さな声だったけれど。 その言葉は牧の心の中で、はっきりとした輪郭を映し出していた。

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