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ラブ、おかわり #6
「あの……。お風呂、ありがとうございました」
牧の部屋着に着替えた鳴海が、バスルームから出て来るなり、遠慮がちに頭を下げた。
体中からほかほかした湯気を出していて、顔の血色も大分良くなったようだ。
待っている間ずっと鳴海の体調のことが気がかりだった牧は、いつもと変わらない風呂上がりの格好を見てやっと人心地がついた。
「……喉、乾いただろ。飲み物、今入れたとこだから」
ローテーブルの上にコップを二つ置いて、部屋の入口で突っ立ったままの鳴海に向かってこっちへ来て座るよう促す。
鳴海は置かれたコップのあたりを凝視して、しばらく逡巡する素振りを見せるが。結局素直に従うことにしたのか、何も言わずに大人しく牧の隣に腰を下ろした。
「……?」
その一連の流れを不思議そうに眺めていた牧は、二つのコップの位置を見て、ようやく自分のやらかした失態に気づく。
――ああっ。ついいつものクセで、コップを並べて置いてしまった…!
下手すれば肘がぶつかりそうなくらい近い距離に鳴海がいて、牧は急に緊張し始めた。
「あ…、えっと…。うち今、りんごジュースしかなくて。親戚の内祝いで送られて来たやつなんだけど、濃縮還元じゃなくてストレート果汁のやつだから美味しいと思うよ」
ドキドキとうるさい心拍を誤魔化すように、早口で取り繕う。
ちらりと、鳴海の様子を横目で盗み見てみると。
「……いただきます」
牧とは目を合わせずに、静かにコップを口元へと運んでいる姿が目に入る。
思えば、こうして鳴海の横顔を見ていた記憶は、そんなに多くはない気がした。いつもは、その瞳の中に自分が映っているのが当たり前だったから。
今はもう、その権利すらないのだと思い知らされる。
牧もジュースを一口飲んで味を確かめてみたが、舌は甘いと認識しているはずなのに、なぜか脳ではそれを苦いと訴える。
防衛本能というやつなのか。ジュースが苦いから胸までぎゅっと苦しくなるのだと、くだらない理由を並べて言い訳をして、ただひたすら現実から目を背ける自分がいることに気づく。
「…………」
重い沈黙が、のしかかる。
気まずい空気に耐えかねて何か話そうと思っても、言葉がなかなか出てこない。
そもそも、今の自分たちの関係に名前をつけるとしたら、何と呼べばいいのだろう?
元カレ? 友達? それとも――…。
他人、という単語が牧の頭の中を一瞬掠 めていって。それでいて、深い傷を抉 っていく。
けれど、今更「せめて友達でいてほしい」だなんて言える立場でもないのはわかっていた。
鳴海に他人と思われても仕方のないことを言ったんだ。自業自得じゃないか。
牧が俯いて、苦いりんごジュースの入ったコップを両手で握りしめていると。
「牧さん。これって……」
「え?」
先に沈黙を破ったのは、鳴海だった。
思わず顔を上げてみれば、鳴海の手には銀色のメダルが一枚収まっていて。
「あ、それ…。さっき、財布から落ちて……」
先程はバタバタしていたので、後で財布に戻そうと一旦テーブルの端に置いていたのだが、すっかり忘れていた。
「財布に……? もしかして牧さん、いつも持ち歩いてたの?」
「……!」
図星を指されて、牧は赤面する。
たかが一枚のメダルではあるけれど、これを見ていると鳴海と二人で『ワンダー・キングダム』へ行った日のことを思い出すから大事に肌身離さず持っていたとか、実は仕事の合間に時々こっそり取り出してニヤニヤしていたとか、とても恥ずかしくて言えるはずもなく。
押し黙ってしまった牧を見て、鳴海は嬉しそうに頬を綻ばせて微笑った。
「俺も、一緒。財布に入れて、毎日持ち歩いてたよ」
「えっ。鳴海も……?」
「うん。牧さんとの、大事な思い出だから」
ほら、と鳴海が自分の財布を取り出して、小銭のところを開けてくれる。
中身を見てみると、確かに百円玉や五百円玉に混じって、クエストで貰ったメダルが一枚入っていた。
「毎日持ち歩くとなると、どうしても保管場所が財布しかなくて。でも小銭で支払おうとして百円と間違えてメダルを出しちゃって、レジですごく焦ったことがあったな」
「マジで? 俺も、小銭と間違えて出すのよくやるっていうか、そんなんしょっちゅうだし。大きさ同じくらいだから、紛らわしいんだよな」
「あと、いつも仕事の休憩中とか、疲れてるときに眺めて元気を貰ってる。あの時は楽しかったなって思い出したり。また牧さんとワンキン行きたいなって、考えたりするのが楽しくて……」
鳴海が、そう言って柔らかい笑みを牧に向ける。
――同じだ。
鳴海も、自分と同じ理由でメダルを持ち歩いてたくれていたなんて。
牧は久々に見れた鳴海の優しい笑顔に胸が締めつけられそうになるのと同時に、やっとその瞳の中に自分が映ったことへの喜びが湧き上がってくる。
りんごジュースをぐいと飲み干せば、苦いと思っていた味はいつの間にか魔法のように甘さを取り戻していた。
今の鳴海の言葉で、勇気を貰えた。
鳴海があの時のメダルを大切にしていたということは、少しは牧のことを特別に思ってくれているのではないかと期待する。
鳴海は優しいから、一緒にいるうちに少し情が移っただけなのかもしれないけれど。
……それでもいい。
たとえそれがただの期待だろうが、勘違いだろうが、関係ない。
もう嘘はつきたくない。
自分の正直な気持ちを、言葉を、鳴海に伝えたい……。
「――あれ? 牧さん。目がちょっと腫れてるけど、もしかしてさっきまで泣いてたの……?」
鳴海に心配そうな顔で覗き込まれて、ドキッとする。
「ち、違…っ。これは、ただの花粉症で、目が痒いだけで……」
慌てて眼鏡をずらして、袖で目をゴシゴシと擦る。
鏡なんて見ていなかったから、まさかそんなに泣き腫らしていたとは思わなかった。
「……今の俺、不細工だよな」
「そんなことないよ。牧さんは、いつだって綺麗だ」
眼鏡を元の位置に戻すと、優しげな鳴海の双眸にピントが合わさる。
あんなに酷いことを言ったのに、今でも鳴海は優しくしてくれて。
――俺、やっぱりまだ鳴海が好きだ…。
やり直せるなら、やり直したい。
それならリセットをして、もう一度ゼロから始めればいい。
……それだけだ。
「鳴海」
名前を呼んだ後。
牧は手を膝について、その頭を床に擦りつける勢いで下げた。
「ごめん! ……俺、鳴海に嘘ついた」
「え…。嘘、って……?」
上から鳴海の戸惑う声が聞こえてくるが、牧は構わずそのまま言葉を続ける。
「別れたいってことも。鳴海の顔を見たくないって言ったことも。全部、俺の本心じゃないんだ。本当は、まだ鳴海のことが好きで、ずっと鳴海と一緒にいたいと思ってる」
「それ、本当…? ……え? じゃあ、何で……」
「だって、鳴海には。ずっと前から好きな人がいるだろ」
「……っ! でも、それは…」
「鳴海が今でもそいつのことが好きって言うから、俺は身を引くしかないって思った。けど、もう一度だけチャンスをくれないか。今はまだ、他の奴のことが好きかもしれないけど。俺は、そいつには敵わないかもしれないけど……」
そこまで言うと、牧はガバッと頭を上げて、鳴海の眼をまっすぐに見据える。
「俺、鳴海に好きになってもらえるよう努力するから! いつか鳴海の一番になれるまで、頑張るから…! だから……っ」
――もう少しだけ、鳴海の時間を俺にください。
無我夢中だったから、自分で何を口走ったか覚えていないけど。多分、そんな感じのことを言ったんだと思う。
一世一代の、大告白。
けれど。鳴海はただ瞠目するだけで、なかなか返事をしてくれなくて。
牧は次第に、不安に駆られる。
「な、鳴海…………?」
恐る恐る声をかけてみると、それまで固まっていた鳴海はようやく我に返った様子で。
「あ……。えっと、まだちょっと…混乱してて…………」
何から聞けばいいのかな、と困った顔で言うので。
鳴海が頭の中を整理するまで、牧は静かに待った。
「……あの、牧さん。ひとつ、確認なんだけど……。さっき。有島から『全部聞いた』って言ってたよね?」
「ん…? ああ。あいつが、鳴海にそう言えばわかるからって……」
「その『全部』の内容、俺にも教えてくれる?」
「えぇー…。やだよ。あいつの顔、思い出したくねえし。それに鳴海、自分のことなんだからわかるだろ?」
「いいから、言って」
鳴海が、いつになく真剣な表情で言うので。
それまで渋っていた牧は仕方なく折れて、先日の有島とのやり取りを話した。
「んーと…。有島が、自分のことを鳴海の元カレ改め元セフレだって言って…。鳴海が元々ゲイだってこととか…。何年も前から片想いしてる人がいて、有島がそいつに似てたから関係を持ったことなんかも言ってて……」
話してるうちに段々と当時の記憶が甦ってきて、それだけで胃の中がムカムカとしてくる。
「あと、インビジの服がダサいってバカにしてきて……あ、これは関係ないか、でもやっぱムカつく。……んで、有島と別れる時に鳴海がまだその人のことが忘れられないって言ってたから、今もまだ好きなんだろうって話をされた」
「それだけ?」
「あ、そうそう。俺も、その本命の人に似てるから鳴海に抱かれてるだけだから勘違いするなってことも言われた。俺はただの、期間限定の代用品なんだって」
「え……」
有島に聞いた話はこれで『全部』かな、と牧が締めくくると。
鳴海はみるみるうちに青ざめていって、その顔に絶望の表情を浮かべた。全てを知られたことが、そんなにショックだったのだろうか。
確かに、他に好きな人がいるのにそれを隠してつき合っていたことは良くないし、そこだけ取り出すとクズみたいに聞こえるけど。
牧は別にそれくらいで鳴海のことを嫌いになんてならなかった。
「大丈夫だって、鳴海。……そりゃ、最初は俺も結構ショックだったけどさ。でも今は体だけの関係だって思われてても、俺は構わないから。いつか絶対、俺のこと振り向かせてみせるからさ」
そう言って、牧が力強く意気込むと。
鳴海がパタン、と後ろに倒れ込んだ。
「な、鳴海……っ!? どうした、大丈夫か!」
鳴海は仰向けのまま前腕を頭に乗せて、目隠しをするような仕草をしながら盛大な溜め息をついた。
「勘弁してくれ……。あいつのせいで俺は、牧さんに振られそうになったのか……」
脱力した状態で鳴海が一人、何やらぶつぶつと呟いている。
その様子を牧が狼狽して見ていると、やがて鳴海はゆっくりと体を起こして、再び座る体勢へと戻った。
髪が乱れるのも構わずに、右手でがしがしと頭を荒々しく掻き。それからもう一度、大きな溜め息をついた。
「……牧さんは、有島に担 がれたんだよ」
「は……?」
「要するに、騙されたってこと。全部が嘘ってわけじゃないけど。事実を捻じ曲げられたっていうか。一番大事なところを、牧さんは聞かされていないっていうか」
「騙され……って、えっ? 何、どういうこと…?」
頭が追いついていかない牧の顔を、鳴海はしばらく照れ臭そうに見つめて。
「……ねぇ、牧さん。俺たちが初めて出会った日のことを、覚えてる?」
「初めての…? あの、ワンキンでデートした日だろ?」
知り合ったのは、土田とショーコに紹介されたのがきっかけだったはずだ。
すると、鳴海はふるふると首を横に振って。
「実は……。俺と牧さんは、もっと前から出会っていたんだよ」
「え? そうなのか…? それって、いつのこと?」
「その時も三月だったから。ちょうど6年前……かな?」
「ろ…、6年!」
ヤバい。覚えてる気がしないぞ……。
牧が密かに冷や汗をかいていると、鳴海がくすっと笑みを見せた。
「といってもほとんど一瞬みたいなものだったし、俺が一方的に覚えてるだけだから。それに、牧さんが俺の顔を忘れてても仕方ないっていうか……」
いやいや。こんな顔の整ったイケメン、一度見たら忘れるはずがないんだが。
牧が目を細めて鳴海の顔をじっと見つめると、鳴海はパッと視線を逸らして、頬を赤く染めていく。
「そ、そういうわけで。……牧さんのことなので」
「へ? 何が?」
「俺が、ずっと片想いしてた人」
あ、そうなんだ。と一瞬返事をしそうになって。
――え? 今、何て言った……?
「本当は、このことは言うつもりなかったけど。でもまた変な誤解をされて、牧さんを悩ませることがあったらいけないので……」
鳴海はそこで一旦区切り、りんごジュースを一口、喉の奥へと流す。
それからコップを静かに置いて、牧の方へと向き直った。
「今度こそ。俺の『全部』を、知ってくれますか」
そう言って、鳴海は初めて自分の過去を語り始めた――…。
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