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ラブ、おかわり #8

「あの…、お待たせして、本当に申し訳ありませんでした……!」 「あー。俺も寝てただけだし、別に気にしてないから。それより、今からシャンプーだっけ。お願いしてもいい?」 「……はい!」 寝起きでまだテンションが低いのか。 シャンプークロスをかけて「苦しくないですか?」と確認しても、「ん」と短い返事しか返って来ない。一文字ではあるが、この場合問題なしと捉えて良さそうだ。 シャンプー台の椅子をゆっくり傾けて、彼の髪に触れてみる。 艶のある黒髪は柔らかくて、とても手触りが良かった。自分もこんなサラサラの髪に生まれたかったな、と憧憬の念を抱きながらシャワーをかけ、髪を濡らしていく。 そして、シャンプーを泡立てている間。 こっそり、彼の顔を盗み見る。 ――改めて見てみると、本当に綺麗な顔をしているな……。 歳は、俺と同じくらいだろうか。 目を閉じていても中性的な美しさが滲み出ており、それでいて凛々しさも備え持っている。 体格も若干細身ではあるけれど、引き締まった体はしっかりと男らしさがあって。 ……正直、物凄く好みだ。 この店はコストカットの関係でフェイスガーゼを導入していないので、シャンプー中でも顔がよく見えるのがありがたい。 いつもガーゼがないことに関して「落ち着かない」と客から文句を言われることが多かったが、今回ばかりはサービス精神の乏しいこの店を褒め称えてやってもいいくらいだ。 ……と、思わず魅入ってしまったが。 今は仕事に集中しなくては、と頭を横にブンブン振る。 このお客さんは、後ろ姿しか見てなかったけれど、確かさっき小磯さんがカットを担当していた人だ。のんびりシャンプーなんかしていたら、また小言のひとつやふたつ言われかねない。 なんとか無事にシャンプーを終えて。 「足元に気をつけて」と声をかけて、最初にいたセット席へと案内しようとした次の瞬間。 いきなり彼が床の段差を踏み外して、ふらっと前に倒れそうになる。 「あ、危ない…っ!」 咄嗟のことに、つい背後から抱きしめる形で支えてしまい。 体と体が密着して、その距離の近さに心臓が跳ね上がる。 続いて、腕の中に彼が収まっているのを見て、心のどこかでラッキーと思ってしまった自分がいることに気づく。 ノンケの美青年に抱きつく機会なんてなかなかないから、こんなにドキドキしているんだろうか。 「……大丈夫ですか」 「あ、うん。ありがとう」 平静を装って、体を離す。 ……期待なんてしてはダメだ。 この人はどこからどう見ても女にモテそうだし、ゲイである自分と何かが始まるなんて有り得ないのだ。 後ろ姿を見つめながら、自分にそう言い聞かせていると。 不意に、彼が振り向いて俺のそばに戻って来て。 「あのさ……。俺、今。眼鏡してないから、足元がよく見えてなくて。悪いんだけど、席まで連れてってもらってもいい?」 「あっ、はい。もちろん」 「よかった。またコケたら嫌だからさ」 彼は「よろしく」と言って。 それから、俺の手を握ってきた。 ……えっ? 連れて行くって、そういう意味……!? てっきり、声をかけて先導するだけかと思っていたら。 まさかの手繋ぎに、戸惑いを隠せない。 だって、これじゃ…。 ――カップル…、みたいだ……。 顔が熱くなっていないか心配をしながら、なんとかセット席までエスコートする。 鏡の前にあるテーブルの上には、黒いフレームの眼鏡がスタンドに置かれていて。視力が悪いというのは、どうやら本当らしい。 彼が椅子に座ったところで自然と手が離れていき、なぜか名残惜しさを感じてしまう。 ……もっと、彼に触れていたかったな。 そんな欲望が、溢れ出る。 気の利いた店ならばここで簡単なマッサージを行うところだが、当然ながらこの店ではそういったサービスなんてものはなく、それが非常に悔やまれる。 大きな息を吐いて視線を鏡に向けると、彼と目が合った。 しまった。うなじや肩を厭らしい目で見ていたの、気づかれたか…? 気持ち悪いって言われたら、どうしよう。 「気持ち良かったよ」 「……えっ?」 「ここ、カットは微妙だけど。シャンプーは上手だね」 「ありがとう…ございます……」 シャンプーを、褒めてもらえた。 ただそれだけで、美容師の道を選んで良かったなぁと感動するくらい嬉しくなって。 同時に、自分はこんなにも単純な細胞で出来ていたのかと気恥ずかしくなる。 手は荒れまくりだけど、たくさん練習をして、仕事で毎日経験を積んだ甲斐があったと、心の底から思った。 ドライヤーのコンセントを差し込むと、横で彼が大きな欠伸をする。 そういえばさっきも、うたた寝をしていたし。寝不足なのかな。 昨夜遅くまで彼女と過ごしていて……とかだったらショックだな。 普段、眠そうにしているお客さんにはうるさく話しかけないように気をつけているが、どうしても気になってしまって。 「き、今日はずっと、眠そうですね…。夜更しでもされたんですか?」 「んー。昨日ちょっと……ね」 何やら含みのある言い方をされ、やはり睡眠不足の原因は恋人なのかなと肩を落としていると。 「友達っていうか、同僚とさ。徹夜でマリパしちゃって」 「え? マリパ……?」 「そう。知ってる? マリモパーティ。すごろく全ステージ完走するまで頑張ってたら、気づいたら朝になっててさ」 そっか、同僚とゲーム…。少なくとも、彼女とではなかった。 思っていたものと違う回答が返ってきて、ほっと胸を撫で下ろす。 マリモパーティは、たくさんのミニゲームやボードゲームが遊べる、対戦型の家庭用ゲームだ。亀やキノコなど色々なキャラクターが登場するが、特にスーパーマリモという緑の球体の主人公は日本で知らない人はいないくらい有名だ。 ブローをしている間も、彼はマリモパーティについて熱く語った。 アクション系は得意だが、リズム系のミニゲームは苦手だということ。すごろくは意外と頭を使うが楽しいこと。それから、モグラのモグプーというキャラクターをいつも愛用していることも。 ドライヤーの音で聞こえにくかったが、楽しそうに話す彼の声に、俺は必死になって耳を傾けた。 ――あ。笑ってるとこ、初めて見た。……可愛い。 表情を崩す彼に、しばらく見惚れていると。 「おーい、『ワカメ』! ちょっと来て」 遠くの席から小磯に呼ばれ、俺はドライヤーを持つ手をビクッと震わせる。 何も、そんなに大きな声で…。しかもお客さんの前で、言わなくても……。 恥ずかしさと嫌悪感で、思わず表情を曇らせる。 ドライヤーを切り、「すみません、ちょっと失礼します」と一言謝ってから小磯の元へ駆け寄る。 「……何でしょうか」 「ハイライト終わって今ベースやってる途中なんだけど。もう少ししたらそっちの仕上げに行けると思うから、よろしく」 「わかりました…。こっちもまだブローの最中なんで、大丈夫です」 まさか、それだけのためにわざわざ呼びつけたのか。 彼との貴重な時間を邪魔されただけでなく、彼の前であの名前で呼んだことに対しても静かに憤りを覚える。 でもドライヤーの音で聞こえなかった可能性もあるし…と一縷(いちる)の望みを抱きながら、元の場所へ戻ると。 「……ねぇ。『ワカメ』って何のこと? 業界用語?」 開口一番、急所を突く鋭い質問をされ。 やっぱり聞こえていたのか、と落ち込んでしまう。 そうだよな。あれだけ大きな声で言われれば、当然か…。 できれば、彼にだけは知られたくなかった。 なぜかそんな思いが胸にあった。 しかし、この状況で今更はぐらかすこともできないと観念し、素直に事実を話すことにした。 「俺が……。酷いくせ毛で、天然パーマだから。そう呼ばれてるんです…」 「えっ、そうなの? 俺にはストレートにしか見えないけど」 眼鏡外してるからかな…と目を細める彼から顔を背け、俺は自嘲気味に微笑(わら)う。 「これは…、縮毛矯正をかけてるんです。伸びてきた根元も、ヘアアイロンでまっすぐにして誤魔化してて。パーマをかけてもいないのにワカメみたいな髪って、やっぱり変…ですよね……」 そこまで言って、俺は自分の言葉に自ら凹む。 彼は「ふうん」と反応の薄い相槌だけ打つと、それから静かになった。 手櫛をするフリをして、彼の髪を指に絡める。 それは、まっすぐで。サラサラで。 とても、綺麗な黒髪をしていて……。 そんな髪を持つ人にこんなくだらない悩みを伝えたところで共感してくれるわけがないのに、どうして話してしまったんだろう。 いつもみたいに「大変だね」とか、「苦労してるんだね」とか。 他の連中と同じように、慰めの言葉をかけてもらえることでも期待していたんだろうか。 「……つーか。ワカメの、何がいけないんだ?」 「え?」 一瞬、何を言われたのかわからなくて。 鏡の中の彼に、焦点を合わせる。 「俺は、ワカメ好きだよ。味噌汁に入っているのも、ワカメごはんも大好きだし」 ――別にいいじゃん、ワカメでも。 彼の唇がその言葉を紡いだ、その瞬間。 自分の周りを覆っていた透明の殻が、大きな音を立てて割れたような気がした。

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