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ラブ、おかわり #9

――ワカメでも、いい。 そんなことを言われたのは、生まれて初めてで。 砂漠に雨が降ったみたいに、彼の言葉が胸にすうっと染み込んでいく。 まるでかけられていた呪いが解けたかのように、心がふわりと軽くなって。 同時に、その呪いをかけていたのは他ならぬ自分であったことにも気づかされる。 ……何だ。 散々、周りに対してありのままの姿を受け入れてもらえないと、不平不満ばかり漏らしていたくせに。 結局、くせ毛であることを一番毛嫌いしていたのは、俺自身じゃないか。 ワカメでも。くせ毛でもいいなんて。 そんなこと、今まで一度も思ったことなかった――…。 「ぼやけて顔よく見えないけど、お兄さん、多分イケメンだと思うし。パーマっぽい髪も、似合うと思うよ? きっと、格好いいんだろうな」 「え…」 彼が、無垢な笑顔を俺に向けてくる。 その柔らかい表情を見ていると温かい気持ちになれるのに、なぜか胸のドキドキが止まらなくなって……。 「あっ、そうだ。さっき触ったとき思ったんだけどさ。お兄さんの手、すごいカサカサだったよね?」 「あ…。これは……」 シャンプーばかりの毎日で、誰が見ても手荒れが酷いのは明らかで。 見られるのが恥ずかしくて咄嗟に自分の手を隠そうとしたら、彼は床を足で蹴って、椅子を自らクルンと回転させて向きを変えてくる。 逃げるのに失敗した俺の手は、彼の手に優しく捕まえられてしまって。 「これ、俺が最近使ってるお気に入りのハンドクリームなんだけどさ。保湿力あって、しっとりするんだ。塗ってあげるよ」 「え…、あ…あの……」 彼はズボンのポケットから銀色のチューブを取り出し、クリームを俺の手の甲に有無を言わさず塗りつける。 彼の温かい両手に包まれるように撫でられれば、乳白色のクリームはやがて透き通った液体へと変化していき。 肌と肌が吸いつくように張りついて、なんだか裸で抱き合っているような錯覚にさえ陥る。 ただハンドクリームを塗られているだけなのに。どうしてこんなに、興奮してしまうんだろう。 ドクン、ドクン……。 心臓が。壊れそうなくらい、うるさい。 呼吸が浅くなっているのを気づかれないようにしながら、向かい合う彼の顔をじっと見つめる。 瞼を伏せた顔も、下を向いてはらりと頬に掛かる髪の毛も。 耳に溶ける優しい声も。俺の欲しい言葉をくれる、その唇も。 何もかもが愛おしくて、胸がぎゅっとなる。 ……なんとなく、気づいていた。 初めて会ったときから、一目惚れだったんだ。 最初から彼に惹かれていたけど、どうせ叶わぬ恋だから諦めるしかないと、必死になってブレーキをかけようともした。 相手の恋愛対象が男ではないことも。 好きになったところで、どうしようもないことも。 全部、わかっていたのに……。 それでもやっぱり、好きになってしまった。 ――俺はこの人に、恋をしてしまったんだ……。 「はい、これで終わりっと。……ね? しっとりになったでしょ?」 「はい……。ありがとうございます」 まだ彼に触られたところが熱を残していて、とろけそうになる。 もっと、彼のことが知りたい。 名前は何て言うんだろう。仕事は何をしているの? 住んでいるところはどこ? それから、今つき合っている人がいるかどうかも……。 こんなに質問攻めにしたら、彼は困るかな? これからブローの続きをしながら、少しずつ聞き出していこう。 ドキドキしながら、ドライヤーを手に取ると。 「なんだ、まだブロー終わってなかったのか? 本当、トロいなお前」 「小磯……さん…」 今一番会いたくなかった人物の登場に、俺は体が硬直してしまう。 普段は客を待たせてばかりなのに、何でこういうときだけ仕事が早いんだこの人は。 俺はギリ、と奥歯を強く噛みしめた。 「もういいから、向こうの床掃除頼むわ。後は、俺が仕上げのカットのついでにやっとくから」 そう言って小磯は俺の手からドライヤーを奪うと、早速お得意の「客の前でだけ愛想が良い営業モード」に入った。 彼は一瞬こちらを振り返るが、小磯に髪型の話を振られ、すぐに鏡に目線を戻したようだった。 未練がましくその場に立ち尽くすも、既に見えない壁が俺と彼との間を隔てているようで、すぐそこにいるのになぜか遠く感じて。 項垂(うなだ)れながら、背中を向ける。 「もっと、話をしたかったな……」 誰にも聞こえない声で独りごちると、深い溜め息をついた。 ラバーほうきで床に散った髪の毛をかき集めながら、遠巻きに彼の様子を窺う。 ちょうど会計をしていて、もう帰るところのようだ。 「眼鏡をかけている姿も、いいな……」 支払いを済ませた彼が出口へと向かい、俺はほうきを握りしめながらその後ろ姿を見送る。 さながら、舞踏会の夜に置いていかれるシンデレラの気分だ。 どうやら俺のところには、魔法をかけてくれる魔法使いは来てくれないらしい。 もっとも、俺が先程から目で追いかけている相手は義理の姉妹でも王子様でもなく、どちらかと言えばお姫様なのだが。 ……あれから、話しかけるタイミングもなく終わってしまった。 また、この店に来てくれるだろうか。 結局、彼の名前も聞けなかった上に、向こうも俺の名前を知らないままだ。 それどころか、彼はずっと眼鏡を外していたから、顔すら覚えてもらえていない可能性だってある。 裸眼だと足元がおぼつかなくなるくらいだ。人の顔なんて、それこそよく見えていなかったに違いない。 そうなると彼から見た今の俺は、ただの「手がカサカサしてるシャンプーが得意なお兄さん」でしかなくて。 はぁ、と気の抜けた息が口から漏れる。 名前も職場も、住んでいるところもわからない。 かろうじて知り得た情報といえば、マリモパーティでいつも彼がモグラのモグプーを操作していることくらいで。 どうしてもっと早く、色々聞き出しておかなかったんだ。ヘタレにも程があるだろ、俺……。 人を本気で好きになると、こんなにも臆病になるものなのか。 もし次会ったら、デートに誘って、キスまでするくらいのつもりでいなければ。 俺はそう決意をして、拳に力を込めた。 お客さんが帰った後、雑誌を片づけるのもアシスタントの仕事だ。 「彼は何を読んでいたのだろう?」と興味津々に見てみれば、一番上に積まれていたのはメンズファッションの雑誌で。表紙には「最新モテ服・着回しコーデ特集」と大きな文字で記されていた。 そういえば、彼の服装もこういう雑誌みたいなこなれた格好だったな。服、好きなのかな。 あんなに綺麗な外見をしているのだから、もしかしたら職業はモデルなのかもしれない。 この雑誌に載っていたりしないだろうか、と期待してこっそりページを捲ろうとしたところ。 本の陰に、見覚えのある何かが隠れているのを発見する。 そこには、植物の絵のラベルがついた絵の具のような銀色のチューブがひとつ。 まだ記憶に新しいそれは、彼がさっき持っていたハンドクリームと同じデザインで……。 「もしかして、忘れ物じゃ……!」 考えるより先に体が動いて店の外へ飛び出すが、彼の姿はもうどこにもなくて。 「――…」 きっかけがあれば、また話ができると期待したが。 物事、そううまく運ばないようだ。 仕方なくハンドクリームを手にしたまま店内へと戻ると、受付のカウンターに同じアシスタントのミホがいて。 「どうしたんですか鳴海くん、慌てるなんて珍しいですね」 ミホが予約表のボードを手に、声をかけてくる。 予約――。 「そうだ、予約だ!」 「え…?」 何で、失念してたんだろう。 ネット予約サイト『ginger(ジンジャー) cutie(キューティー)』から予約が入ると、客の氏名と電話番号などの情報がサロンに通知されてくるのだ。 ちょうど今、ミホはネットからの予約を書き写しているところのようだった。 職権乱用、公私混同と非難されようが、今は何としてでも彼の個人情報をゲットしたい…。 「ミホちゃん、さっき帰ったお客さんのジンジャーの履歴って、今見れる?」 「さっきの…? ああ。その方は、予約のお客様ではないですね」 「え……? 予約じゃ、ない?」 「確か、店の前を通りかかって急に髪を切りたい気分になったから、立ち寄ったのだと言っていました。私が受付したので、間違いないです」 「え、でも…。今日は混んでるから、予約客しか受け入れないはずじゃ……」 「そうなんですけど。断ろうとしてたら、小磯さんが売上欲しさに引き受けてしまって」 「…………。ちなみに、当然カルテも書いてもらってないんだよね?」 「はい。うちはカットのみのお客様には、わざわざカルテ作りませんからね」 「だよね……」 期待で膨らんだ胸が一気に小さく(しぼ)んで、がっくりと落胆する。 この店のコスト重視な方針は今に始まったことではないが、今日ほど恨めしく思った日はない。 「あ。でも、予約ということにしておいたので、名前だけは伺っておきましたよ」 「……!!」 それを早く言ってよ! (はや)る気持ちを抑えながら、予約表を見せてもらって。 ようやく、彼の名前を知る。 「――マキ…?」 「一応、間違いないか確認したんですけど。それが名字みたいです。女の子みたいな名前ですよね。あっ、鳴海くんと一緒ですね」 確かに俺も、ナルミという名字でよく女の子に間違えられたことがあった。 彼との間に思わぬ共通点があったことがわかり、そんな小さなことですら嬉しくて、思わず頬が綻ぶ。 「そういえば、そのお客さんに何かご用でした?」 「えっと……」 聞かれて、言い淀む。 忘れ物のことを言おうとしたが、やっぱり自分で返したいと思ったので、内緒にしておく。 「……ちょっと、伝え忘れたことがあったんだ。もしさっきのマキさんていう男の人が店に来たら、すぐ俺に教えてくれるかな?」 「はい。わかりました」 それからミホはシャンプーで呼ばれていき、受付には俺一人になる。 ――あの人、マキさんて言うんだ……。 名前だけだけど、やっと知ることができた。 どんな字を書くのかな。 真木、巻、槇、間木、牧……。思いつくだけでもこんなにある。 黒髪で、眼鏡をかけた、マキさん。 これは探すのに苦労しそうだな。 でも、こうして忘れ物を預っていれば、マキさんはいつか店に取りに来てくれるはず。 それに、ふらっとこの店の前を通りかかるくらいだ。この黄昏町のどこかに住んでいるに違いない。 ――また、すぐ会える。 そう考えただけで、胸が高鳴った。 「マキさん……。早く、あなたに会いたいです…」 俺は、彼の名前を呼びながら。 手の中のハンドクリームの容器の輪郭を、親指で優しくなぞる。 それは、22歳の終わり。 桜の蕾が開き始める季節の、ある晴れた日のことだった。

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