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ラブ、おかわり #10
「ごめんなさいねぇ、鳴海ちゃん。こんなところに呼び出して」
「いえ、俺も前から三船さんの店に来てみたいと思っていたので。いい店ですね」
「あらぁ。そう言ってもらえて嬉しいわ。何か飲む? もちろん、アタシの奢り」
「ありがとうございます。……それじゃ、スクリュードライバーを」
注文すると、程なくして私服姿のバーテンダーが「どうぞ」と目の前のカウンターにグラスを置く。
グラスの縁には、くし形切りにカットされたオレンジが刺さっていて、爽やかな柑橘の匂いが鼻をそっと撫でた。
仕事帰りということもあって、一口飲んだだけで、ふうっと大きな息が漏れる。
こうして外で酒を飲むなんて、久しぶりだ。
しかし、今日はアルコールを摂取することが目的だったわけではなく。
「三船さん、俺に話って何ですか?」
俺は、隣に座る三船へと体を向ける。
このオネエ言葉を流暢に話す三船という男は、最近うちの美容室によく来てくれるお客さんだ。
黙っていれば50代の渋いおじさんにしか見えないが、こう見えてやり手の事業家らしく、このゲイバーを始め飲食店をいくつも経営しているらしい。その他にも、不動産を多く所有しているという話も聞いたことがある。
自他ともに認める生粋のゲイで、俺の性的指向を知る数少ない人間の一人でもあった。
昼間、三船のシャンプーを担当した時に大事な話があるから外で会わないかと、彼がオーナーを務めるこの店に誘われてこうして足を運んだのだが。
あの場では話せない内容と言っていたので、やはりゲイ同士にしかできない話題なのだろうか。
「そりゃあ、もちろん。鳴海ちゃんに愛の告白をするために決まってるじゃなーい?」
「嘘ですね。三船さん、いつもラブラブな彼氏がいるって自慢してるじゃないですか」
「ああん、もうっ。鳴海ちゃんたら、ノリ悪いんだから」
三船がウイスキーのグラスを傾けると、カランと氷の音が鳴った。
「とまぁ、冗談はさておき…。鳴海ちゃん、アタシの会社が色んなお店を展開してるのは、もう知ってるわよね?」
「はい。一応」
「実はね。今度、美容室をプロデュースすることになったの」
「美容室、ですか」
「単刀直入に言うわ。鳴海ちゃん、うちの店に来てちょうだい。ヘアスタイリストとして、ね」
「え…。でも、俺はまだアシスタントで……」
「鳴海ちゃんが既にスタイリストとしての実力を持ってるということは、聞いているわ。誰よりも努力してきたことも知ってるし、職場環境が悪いことも、それで苦労させられてることも知ってる」
「…………」
「鳴海ちゃん、もう24だったわよね? このままあの店にいたら、鳴海ちゃんの未来が潰されちゃうわよ」
真剣な顔をした三船に見据えられ、俺はカウンターの上に置かれた自分のグラスに目を落とす。
オレンジ色の液体の入った透明のガラスの表面には、結露した大粒の雫がつうと垂れていた。
「大変ありがたい話なんですが……。辞退させていただきます」
「……っ! ど、どうして? いい話だと思わない? お給料だって、今の倍は出すわよ?」
三船はまさか断られるとは思っていなかったようで、前のめりになって食い下がる。
しかし、俺は首を縦に振ることはできなかった。
しばらく何も言えず黙っていると、三船がふうと大きな息を吐いて。
「もしかして……。断る理由って、鳴海ちゃんの『好きな人』が関係してるの?」
図星を指され、はっと顔を上げる。
「なぜわかったのか」と言いたげな目を向けていると、「男の勘よ」と三船はその口角を上げた。
以前、彼氏はいるのか聞かれた時に「片思いをしている」と答えたのを覚えていたらしい。
「どういう事情があるのか、聞かせてちょうだい。……アタシのオファーを蹴るんだもの、それくらいの権利があってもいいわよね?」
ずい、と笑顔で迫られ。
観念した俺は、今まで胸に秘めていた恋情を初めて人に打ち明けることにした。
「なんって…! 何て健気なの、鳴海ちゃん…っ! たった一度会っただけのオトコのコを、未だに待ち続けているなんて……。ああン…。アタシ、こういうロマンチックな話に弱いのよぉ〜!」
全てを話し終えたところで、三船が野太い声で泣き喚いた。
高そうなスーツの胸ポケットから白いハンカチを取り出し、滝のように流した涙をゴシゴシと拭う光景を横目に、俺はもう一度返事を返す。
「……そういうわけなんで、三船さん。マキさんがいつ店にやってくるかわからないので、俺はあの店を離れることができないんです」
そう伝えると三船はピタリと泣き止んで、急に神妙な面持ちを見せる。
「ねぇ、鳴海ちゃん…。アタシ思ったんだけど。そのマキさんと本当に再会したいと思っているのなら、それこそあの店を出た方がいい気がするの」
「え…」
「だって、一年以上も忘れ物を取りに来てないわけでしょ? 冷たいことを言うようだけど…、いくら鳴海ちゃんのシャンプーを褒めてもらえたと言っても、マキさん本人が「カットは微妙」の評価をつけている以上、その店にまた行きたいと思っている可能性は限りなくゼロに近いと思うのよね」
「…………」
髪なんて毎日切るものではないから、すぐに会えないことは覚悟はしていた。
それでも最初は、待つのが楽しかった。
けれど、半年、一年、と過ぎていくうちに。いくらなんでも男性がカットに通う間隔をこんなに空けるはずはないと、嫌でも現実が見えてくる。
自分でも、薄々気づいていた。もうこの店にマキさんがやって来ることはないのだ、と。
あの日たまたま通りかかって入ってきてくれただけで、元々常連でも何でもないのだから、一度きりの来店であったことは当然のことだった。
サービスも十分とは言えなかったし、もう一度来てもらえないのは仕方のないことだと、頭ではわかっていた。
わかってはいるけど、諦め切れなくて。
「それでも、俺は待つことしかできないので……」
あれから、黄昏町を隅々まで捜した。
スーパー、ファミレス、本屋、それから服屋。彼の行きそうなところを片っ端から見て回ったが、結局見つけることはできなくて。
ネットで検索しようにも本名はわからないし、手元に写真のひとつも残っていない。試しに『マキ 黒髪 眼鏡』のワードで検索してみたけれど、女の子の写真がヒットしただけだった。
ただ、記憶を頼りに追いかけることしかできなくて…。
唇を噛みしめながら俯いていると。
三船がウイスキーを口へ運び、それから口元にふっと笑みを浮かべた。
「それなら尚更。鳴海ちゃん、うちの店へ来なさい」
「え、どうして…」
「今の店には来てもらえなくても。新しくオープンした店なら、一度行ってみようかなって気になってくれるかもしれないでしょ?」
「確かに…、そうかもしれないですけど。でも……」
「ふふっ。心配しないで。実は今度できる美容室の場所も、黄昏町だから」
「黄昏町に…?」
「それならマキさんも、また通りかかることだってあるかもしれないわね」
マキさんが、来てくれるかもしれない。
そんな言葉が頭の中に流れ込むだけで、期待で胸が一杯になる。
「鳴海ちゃん。確か今、あけぼの区の外から時間かけて通勤してるんでしょ? アタシが所有している物件で、黄昏町のマンションに最近空きが出たみたいだから。よかったら、家もそこに引っ越すといいわ」
「え。でも、黄昏町は家賃が高いし…。俺なんかじゃとても…」
「やーねぇ。ゲイ割引で、格安で貸してあげるに決まってるでしょ」
「……。どうして…」
「ん? だって家も黄昏町にあったほうが、鳴海ちゃんも運命の人を探しやすいでしょ。それにどこの馬の骨か知らない輩なんかより、知ってるゲイ仲間に住んでもらったほうがよっぽど安心…」
「そうじゃなくて。どうして、三船さんは俺にそんなに親切にしてくれるんですか……?」
三船は何回かシャンプーを担当しただけのただの客の一人で、こうしてプライベートで会うのも今回が初めてなのに。
戸惑いを隠せずにいると。
三船が頬杖をつきながら、氷を溶かすようにグラスを揺らし始める。
「……アタシね、鳴海ちゃんのファンなの。だから、応援したい。――それが理由じゃ、ダメかしら?」
「え?」
「あ、別に下心があるとかそんなんじゃないから、安心して? ……鳴海ちゃんのことをイイ男と思ってることは、否定しないけど」
「はぁ…」
「実はアタシ、寝る前に『ginger cutie 』でイケメンの画像を漁るのが趣味なの。……って鳴海ちゃん、そんな顔しないで!? 別に変な意味じゃないから! ただ目の保養っていうか、キュートな男子たちに癒やされたいなーって眺めるだけだから…! それだけなのよ、本当に! 信じて!」
ひとしきり必死に取り繕った後。
三船は「オホン」と咳払いをして、話の続きに戻る。
「それでね。ある日、ヘアモデルのメンズだけじゃ物足りなくなって。イケメンのスタイリストの画像も探すようになったのね。……そうしたら、アシスタントの欄に鳴海ちゃんの写真が小さく載ってるのを見つけて」
確かに、ネット予約サイトにはスタッフ全員の紹介が載せられてはいるが…。
「最初は、ただイケメン美容師に一目会いたいって、そんな軽い気持ちで鳴海ちゃんの美容室に行ったのは確かよ。話してるうちにゲイだとわかって、舞い上がったのも事実。でもね、今まで出会った美容師の中で誰よりも、鳴海ちゃんがお客のことを考えてくれてるのが伝わってきて…。そんな時、次は美容室の経営も始めてみないかってビジネスがちょうど転がり込んで来てね」
三船は飲みかけのグラスをカウンターに置くと、まっすぐ俺の顔を見つめて。
「鳴海ちゃんみたいな子が、うちで働いてくれたらいいなって思ったの。もちろん、今は鳴海ちゃんの恋を応援したいって気持ちもあるけれど…。一番は、あなたなら安心して仕事を任せられると確信したから。……それが、あなたに対するアタシの評価よ」
「三船、さん――…」
今まで、評価をしてもらえたことなんて、一度もなかった。
精一杯、自分なりの接客をして。夜遅くまで練習をして、勉強して。
くせ毛で悩んでる人を助けたいという気持ちは変わらないから、おかげでくせ毛を活かしたカットばかり上達したけど。
大変だったけれど……。ずっと、頑張ってきて良かった。
そして、こうして自分を正当に見てくれる人がいたことに、ただただ感謝した。
俺はバーの丸いカウンター席から立ち上がると。
三船に向かって、腰を二つに折り曲げるようにして、頭を深く下げた。
「こんな俺で良ければ。よろしく…お願いします……」
やっと承諾の返事が聞けたことに三船は喜び、「乾杯」とグラスをコツンとぶつけた。
「オープンは来年の春だから、まだ先なんだけど。アタシはただのオーナーという立場になると思うから、現場は鳴海ちゃんたちスタイリストに任せるわね」
「美容室の名前は、もう決まってるんですか」
「『metorite 』。英語で、隕石って意味よ。カッコイイでしょ?」
隕石、か。
マキさんとの出会いも、俺の心の中に隕石が落ちたくらいの衝撃だったな……。
「そうそう、鳴海ちゃん。初めて会った時から言い忘れてたんだけど」
「……?」
「その髪、凄く似合ってるわよ」
「え…」
「ネットのプロフィール画像にあったストレートヘアも素敵だったけど。今の髪型のほうが格好良くて好きよ、アタシ」
言われて、思わず自分の髪を手でくしゃっと触る。
サラサラの髪はもうそこにはなく、慣れ親しんだウェーブヘアのふわっとした感触だけが手に伝わる。
「ありがとう、ございます…」
「ふふ。アタシに惚れないでね? 鳴海ちゃん」
「惚れませんよ」
「んもう、即答しなくてもいいじゃない!」
同じ言葉をかけられても、マキさんの時とは違う。
マキさんの顔を思い出すと、それだけで胸のドキドキが止まらなくなって。
やはりこれは、恋なんだ。
「鳴海ちゃんにパーマヘアが似合うって言ってくれるなんて、マキさんはセンスが良いのね」
「そうですね……」
「早くその髪、マキさんにも見せてあげたいわね」
三船が、歯を見せながらにっこりと笑う。
こうして地毛を人に褒められるようになったのも、自分に自信が持てるようになったのも。
全部、マキさんのおかげだ。
返事をする代わりに、俺はただ静かに頷いた。
――マキさんも、今のこの髪を格好いいって言ってくれるかな……。
言ってくれたら、嬉しいな。
グラスの氷が溶けて、中のアルコールはすっかり薄まってしまっていたけれど。
ほろ酔いしたみたいに、今はとてもいい気分だった。
グラスの縁に添えられた、三日月の形をしたオレンジが。
俺の恋心を、甘い香りで包んでいった。
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