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ラブ、おかわり #11
遺失物法においては、落とし物や忘れ物の保管期間は3か月と定められているらしい。
そして、持ち主が現れなかった場合は、拾得者は所有権を取得する権利が得られるとのことだった。
もちろん、それは警察にきちんと届けられた場合に限るのだが。
しかし、3か月どころか3年が経過した今、もうマキさんがこのハンドクリームを取りに来る気がないことは明白で。
「……もう、俺が貰ってもいいってことですよね。マキさん」
自宅のベッドに座りながら、ハンドクリームのキャップを開ける。
白いクリームを手にたっぷりと塗りつければ、いつの日かマキさんに触れられたときのことを想起させる。
記憶の中で、マキさんの手が。指が。俺の手を撫でる。
思い出すだけで、体がぞくりと震えて。
俺はズボンと下着をずり下ろしてペニスを取り出すと、ぬるついた手でやんわりとそれを扱 いていった。
「はっ……あ…、マキ…さん……」
マスターベーションをしながら、頭の中にマキさんの裸を思い描く。
ベッドに組み敷いて、足を開かせ、後ろの孔 に突っ込んで。
脳内で俺に抱かれるマキさんは、いつも「気持ちいい」と言いながらエロい声で喘ぐ。
ハンドクリームのぬちゃぬちゃとした感触が、まるでマキさんの中に入っているみたいで興奮した。
「んっ…マキさん……。気持ち、いいよ……」
一人暮らしにしては少し広すぎる部屋に、熱い吐息の音が反響する。
マキさんとのセックスを想像するだけで、気持ち良くなって。
「ぁ…あっ…! イ…ク…っ、イクよ……! マキ、さん……ッ」
手淫の速度を上げて追い込むと、すぐに達した。
ドクドクと脈を打ちながら先端から精液が出ていくのを、口で浅い呼吸をしながら眺める。
「…………」
こうして、オナニーするのは何度目だろう。
マキさんのハンドクリームを自慰に使用するようになったのは、『metorite 』に所属してしばらく経った頃からだ。
会えなくて、寂しくて、苦しくて。
少しでもマキさんの存在を感じていたくて、つい「少しだけなら」と手を出してしまったのがきっかけだ。
しかし試してみると予想を遥かに超える気持ち良さで、最近ではマキさんのハンドクリームなしではイケない体になってしまったくらいだ。
ティッシュで後処理をしながら、シーツの上に転がる銀色の容器に目線を落とす。
絵の具のチューブのような形をしたそれは、最初の姿よりも大分痩せてきていて。
「……こんな状態じゃ、もう返すこともできないな」
しかも、本来の用途とは違った使い方をしているなんて口が裂けても言えない。思わず、溜め息に似た息が漏れる。
やっている間はあんなに気持ちいいのに、終わった後は毎回虚しさが残る。
理由は当然、マキさんがいないからだ。
さっきは頭の中であんなにあんあん喘いでいたくせに、マキさんの幻は射精した途端にどこかへ行ってしまう。
時間が経つにつれて、少しずつマキさんの記憶が消えていくのが、怖い。
手は潤ったが、心はずっと乾いたままだ。
俺は平たく潰れたハンドクリームを掴んで、ベッドからゆっくりと立ち上がり。
いつものように洗面所にある戸棚の奥へと、それを罪悪感と一緒にしまい込む。
「こんなことに使って、ごめんなさい」
ごめんなさい。ごめんなさい。
何度も小さな声で唱えながら。
カタンと乾いた音を立てて、扉を閉めた。
*
目が覚めると、見知らぬ天井があった。
頭が、痛い。
ズキズキと二日酔いを訴える頭を押さえながら体を起こすと、そこはどう見てもラブホテルの部屋のベッドの上で。
「……!?」
記憶が、ない。
確か昨夜は、三船の経営するゲイバーに行って…。
混乱していると、自分が一糸纏わぬ姿であることに気づく。
……。
…………。
嫌な予感がする。
恐る恐る隣を振り向くと、そこには自分と同じく裸の男の背中があって。
その後ろ姿を見て、俺は驚愕した。
「え……。マ…キ…、さん……?」
艶のある黒髪、色白の肌。
夢にまで見たマキさんの裸がそこにあって。
これは夢なのだろうかと呆然としていると。
「残念。マキさんじゃないよ」
どこか楽しそうな声とともに、目の前の男が振り返る。――知らない顔だった。
背格好はマキさんと似ているが、全くの別人だ。
相手も寝起きらしく、大きな欠伸をしながら枕元にあった眼鏡をかける。
成人はしているようだが、見たところまだ若い。大学生だろうか。
黒髪だし、眼鏡をかけると本当にマキさんにそっくりで――…。
「…………」
段々と、思い出してきた。
昨夜ゲイバーでマキさんと見間違えて、俺はこの男に声をかけてしまったんだ。すぐに人違いだと気づき謝ったのだが、男の誘いで酒の席を共にすることになって……。
ダメだ。そこから先の記憶が曖昧だ。
とりあえず服を着ようと立ち上がると、ゴミ箱には生々しい使用済みのコンドームが入っていた。認めたくはないが、やはり俺はこの男とセックスをしてしまったらしい。
「……ごめん。酔った勢いとはいえ、初めて会った相手とこんなことするつもりはなかったんだ。部屋の代金は支払うから、許してほしい」
そう言って財布から出した一万円札を渡そうとすると、男に手首を掴まれて制止させられる。
「金なんていいから。その代わり、また僕とセックスしてよ。鳴海さんのちんぽ、凄く気持ち良かったからさ」
顔を近づけて、にっこりと男は笑う。
教えた覚えのない名前で呼ばれて、俺が警戒心を顔に出していると。
「あれ? もしかして覚えてないの? 鳴海さん、お酒飲みながら自分から教えてくれたんだよ?」
その酒を飲んでからのことを全く覚えていないのが辛い。
「……とにかく。俺は誰かとつき合うつもりも、体の関係を持つつもりも、今はないんだ。だから――」
「知ってるよ。マキさんのことが好きだからでしょ」
「な…んで……、知って…」
「もう5年も片思いしてるとか、正直引くよね。それも、一度会っただけの相手だって言うし。いい加減忘れなきゃって思ってゲイバーに足を運んでみたのはいいけど、やっぱりマキさんのことが忘れられなくて辛い、ってことも鳴海さん言ってたよ」
俺は、初対面の相手にそこまで暴露していたのか。アルコールの力って怖い…。
額に手を当てて、溜め息をついていると。
「ま、それでも僕は構わないよ」
「え……」
「そのマキさんって人の代わりとして抱かれてもいいってこと。ああ、セックスだと気が引けるっていうんなら、オナニーの延長だと思ってくれればいいよ。僕のこと、オナホ扱いしてくれても構わないからさ」
「オナホって…。それじゃ、さすがに…」
「僕が可哀想だって? 優しいんだね、鳴海さん。いいんだ、これはゲームなんだから。僕も気持ち良くなれるし、鳴海さんも性欲処理できる。Win -Win の関係ってやつだよ」
男は、いたずらをする子供のようにクスクスと笑って。
「預かってたハンドクリーム、もう使い切っちゃったんでしょ? よりリアルな感触のほうが、マキさんのこと思い出せるんじゃない?」
ハンドクリーム、と言われてドキリとする。
マキさんが置いていったものは、とっくの昔に使い切ってしまった。
仕方なく同じ商品を購入しようと探してみたが期間限定品だったらしく、今はもう手に入らない状態にあった。
代用品として別のハンドクリームも試してみたが、やはりマキさんと繋がりがないこともあってイマイチ気持ちが盛り上がらず、ここのところずっとスッキリしない日々を送っていた。
「ていうか、今更でしょ。昨日あんなに僕のこと、何度も『マキさん』って呼びながら抱いてたくせにさ」
言われて、昨夜の記憶が断片的に甦ってくる。
確かに、あの時はマキさんのことを思い浮かべながらこの男のことを抱いていた覚えがある。
そして、生の人間の感触ということもあって、今までで一番マキさんに近づけたような気がしたことも。
「マキ…さん……」
歪んだ顔で、震えた声で、愛しい人の名前を呟く。
何度呼んでも、本人に届くことはなくて。
血が出るんじゃないかってくらい、強く唇を噛みしめる。
現実逃避だってことはわかってる。
この男がマキさんでないことも、わかってる。
けれど。
何かに縋 っていなければ、もう足元から崩れ落ちてしまいそうで――…。
無意識に手を前に伸ばせば、男の両手が包み込む。
「僕が、鳴海さんの寂しさを埋めてあげるよ……」
その男の名は、有島と言った。
有島との関係は一見ただのセックスフレンドのようだが、いくつかのルールが設けられていた。
向こうが求めた条件は、週に一度、休日を有島のために空けておくこと。それだけだった。
それに対し、俺が提示した条件は。
キスやフェラチオなどの触れ合いは一切無し。
セックスの間、有島は声を出さずに後ろを向いていること。
あくまでマキさんを抱くつもりでするので、最中は『マキさん』と呼ぶが気にしないこと。
…と、こと細やかな設定を相手に求めた。
そして、本物のマキさんが見つかった時点でこの関係は終わりにする、ということも念押しした。
一度承諾したものの、やはり踏み止まりたい気持ちもあって、心のどこかで有島が断ることを期待していた。
これでは本当にオナニーの延長、更に言えばオナホ同然の扱いに近いが、意外にも「それでもいい」という返事が返ってきた。
仕事が忙しく毎週会うことができない時が何度もあったが、それでも有島が文句を言うことはなかった。
そんな都合のいい関係が続くこと、半年。
「そういえば、鳴海さん。マキさんて、どんな服装してたの?」
ことが済んで身支度を整えていると、有島が不意にそんなことを言い出す。
「どんなって…。確か、ベージュのカーディガンに、中は白で。あと、黒いズボン履いてて……」
「……どこのブランド?」
「それは、わからない」
「はぁ…。鳴海さん、いつも服ユニシロでしか買わないもんね」
「……どういう意味だ」
「だって、着ていた服のブランドがわかれば、そのショップに行けば会える可能性だってあったわけでしょ」
「服屋なら、この辺の店は何度も探した」
「近場じゃなくても、好きなブランドだったら少し遠くても買いに行くことだってあるよ」
「えっ…。そうなのか?」
「本当、服に関しては無頓着なんだね。人の髪はやたらとチェックするくせに」
「うるさいな、ほっとけ」
「ていうか。ずっと、黒髪で眼鏡のマキさんを捜してるみたいだけどさ。髪染めてコンタクトしてる可能性もあるんじゃないの?」
「…………」
「鳴海さんてさ。結構抜けてるとこがあるよねー。ま、そこが可愛いんだけど……って、うわっ」
有島の顔に「早く着替えろ」と服をぶん投げてやる。
それから、部屋の出口にある自動精算機の前で支払いの準備をしていると。
「ねぇ、鳴海さん。マキさんさぁ、凄いイケメンだったんでしょ。それに、見た感じだとノンケだって」
有島が、マキさんの話を続ける。
普段は終わったら即解散の流れなのに、今日はやけに口数が多い。
「そんなにイケメンならさぁ。今頃、女とセックスしまくってるんじゃないの」
「……有島。さっきからお前、何が言いたい…」
「だからさ。相手がモテるなら尚更、男の鳴海さんには勝ち目ないんじゃないかなって」
「別に。俺が勝手に、マキさんのこと想ってるだけだから……」
端 から、両想いになれるかなんて期待していない。
ただ、そばにいたい。それだけだ。
すると、有島は裸のままズンズンとこちらへ近づいて、それから俺の肩に腕を絡めてきて。
「……鳴海さん。マキさんなんかやめて、僕にしなよ? やっぱりゲイ同士のほうが、つき合いやすいと思うんだよね」
口元に笑みを浮かべてはいるが、有島の顔はどこか冷たい。
違う。マキさんの笑顔はもっと、氷を溶かすような温かさがあって…。
「…………」
やはり俺は、間違っていたのかもしれない。
いくら外見が似ていたって、マキさんの代わりになる人なんてどこにもいないんだ。
けれど、気づいたところで現状は何も変わらなくて。
俺は大きな息をひとつ吐くと、先程ベッドに投げた服を取りに行き、もう一度それを有島に渡す。
「もう、支払いは済ませたから。バカ言ってないで、お前も早く帰れよ」
そう言って先に外へ出ると。
「……いつも『マキさん』として抱いてくれてる時は、あんなに優しいのに。鳴海さん、冷たい」
ドアが閉まる直前、有島の言葉が背中にぶつかった。
俺は立ち止まり一度振り返ると、その閉じたばかりの扉に向かって静かに言った。
「誰にでも、優しくできるわけじゃないよ……」
不器用だから、人を同時に愛することなんてできなくて。
それなのに、今のこの関係に甘えてしまっている自分もいて。
今の俺は。
ただ、狡 くて。冷たい――…。
*
「今日は、どんな感じにしますか? 渡辺さん」
お決まりのフレーズを言いながら、セット椅子に座った男子大学生に白いクロスをかける。
いつもはカットのみのお客さんだが、今日はカットとカラーで予約をしているようだった。
要望を伺うと、渡辺は思い出したようにポケットからスマホを取り出して。
「えっと…。こんな髪型に、してもらいたいんですけど」
そう言って、用意していた画像を表示してくれる。
髪型や髪色のオーダーは、写真があったほうがお互いにイメージを伝えやすいのでありがたい。
「見せてもらってもいいですか?」
ひょいと背中越しにスマホの画面を覗き込んだ、その瞬間。
俺は、絶句した。
なぜなら、そこに写っていたのは。
――マキ…さん……?
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