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18.上京

 遥は隆人に抱きついた。隆人の指が遥の顎を上げる。仕方なく遥は隆人を見上げる。 「ここを出ればなかなか自由に会えないことで、不満や不安があるかもしれない。だが、意地は張るな。俺のことを思うのなら、自分に素直になっていい」  隆人の唇が遥の唇に触れた。 「それが俺のためになることを忘れないでくれ」  遥は黙って頷いた。  それから微笑った。 「この三日、夢みたいな気分だったよ」 「そうか」 「だから、この約束も忘れない」 「そうしてくれ」  遥は自ら隆人の体を突き放した。 「先にこの部屋を出て、出発してくれ」 「いいのか?」 「察してくれよ」  遥は笑った。 「車番の人に未練たらたらのようすを見せたくないんだよ」  隆人が頷いた。 「では、また東京で」 「またな」  隆人が遥の部屋を出た。  見送った遥は、くるりとドアに背を向けた。 「あーあ、終わっちゃった」 「ご立派でした」  俊介が言った。 「俊介、茶を煎れて。そのくらいの時間をおいてから出たい」 「かしこまりました。達夫兄にもそう伝えておきます」  俊介が小声で年下の者に指示を出し、自らは茶を煎れる。  それを目の片隅に捕らえながら、遥はソファに深く腰掛けた。 「きぬぎぬか……」  そんな言葉を知りたくなかった。知らなければ漠然と「さびしい」で済んだはずだ。だが、この気持ちの名前を知った今は、隆人の不在を今までより大きく感じる。 「ご用意できました」  俊介の言葉が救いの手のように、遥の思考を断ち切った。  いれたての煎茶には、遥の好きな和三盆で作られた花の形の干菓子が添えられていた。俊介の指示で樺沢が用意してくれたのだろう。 「いろいろありがと」 「かたじけのうございます」  菓子を口に運ぶ。  初めて食べたのは中学の修学旅行の京都だ。店頭で味見したのがおいしくて、父への土産に買って帰った。父もとても喜んでくれた。二人で少しずつ食べたのを思い出した。  口の中で溶けていく甘味を、茶でさっぱりと飲み込む。  涙がぽろっと頬を転げ落ちた。  びっくりして頬に触れる。 「失礼致します」  俊介がとハンカチで頬を拭いてくれた。  遥は微笑んだ。 「気が利くな」 「恐れ入ります」  抑えようのない心の空白はどうしようもない。だが、そんな遥を支えようと気を配ってくれる人々がいる。遥はその思いを大切にしなくてはならない。  遥はもう一つ菓子を口に運ぶと、茶を飲み干した。 「さあ、そろそろ東京へ行こう」 「かしこまりました」  俊介が片づけや連絡に采配をふるう。 「やっぱり俊介がいると安心できるな」  俊介が困ったような顔で「申し訳ございません」と言った。 「あー、謝るなって。わかってるよ。がんばってな」 「ありがとう存じます」  達夫がやってきて、遥は部屋を後にした。本邸の屋敷を出て車に乗る。 (この三日間のことを俺は絶対に忘れない)  そう遥は強く願った。その願いは鳳凰に通じたのだろう。この初めての夏鎮めの儀の細部まで、遥が忘れることは生涯なかった。 ――夏鎮めの儀 了――

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