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第5話

 きっかけなど、ほんの些細な事で、――しかし、訪れるべくして訪れた瞬間でもあった。  とあるパーティー会場で元生徒会長の友人と行き会った夢川は、しばらく立ち話をしていた。  先程まで傍に居た秘書は、友人を煙たく思っており、挨拶を終えるとそそくさとその場を逃げ出し、テーブルに並んだビュッフェコーナーへ獲物を前にした狩人のように両目をらんらんと輝かせて行ってしまった。食い意地の張った秘書がパーティーで一番楽しみにしている場所である。  近況を報告し合っていると、ふと友人の視線がビュッフェコーナーへ向けられているのに気づいた。  つられてそちらを見れば、秘書が背の高い男と談笑している姿が目に映る。  ……なぜかざわりと胸の奥が波立った。  とっさに踏み出しかけた足を、友人が引き止める。 「……心配ない。彼の身元は知っている」  内心の読めない顔で、友人は続けた。 「雛森(ひなもり)家の次男坊だよ」 「雛森…? では、彼は…雛森風紀委員長の兄…ということですか」  友人は「風紀委員長か。それ、懐かしいな」と楽しげに笑った。それは心からの笑みで、彼がそんな顔をするのを夢川は久しぶりに見た。  そうだ。この友人は雛森風紀委員長と一緒に居る時は、よくこんな顔をして笑っていたものだ。それこそ、――懐かしい学生時代に。  しかし、雛森風紀委員長は秘書にとっても因縁深い人物なのである。  なにを隠そう、今話題となっている雛森風紀委員長が秘書の初恋の相手であり、そして彼がくだんの委員長に失恋したことがきっかけで自分たちは出会ったのだから。  雛森風紀委員長の兄ならば、きっと信用のおける人物だろう。だが…、  相手の素性がわかったことで安心するどころか、胸のざわめきがより一層強くなった気がして夢川は戸惑った。 「案外、良い縁かもな」 「……なにを言っているんですか?」 「岬さん……あぁ、彼の名前だよ。俺も昔から世話になっていて、懇意にしている人なんだ。性格はお世辞にも良いとは言い難い人だけど、あの人なら間違いはないだろうね。やり手だし、強いし、身内をなにより大切にする人だ。浮気の心配もない。身持ちの良さは保障するよ。あの人は、とても優秀なαだ」 「ですから……なにが言いた」 「わかっていて聞くのか? ――それとも、本気でわかっていないのか? 俺も、長年の友人をそこまで愚かだとは思いたくないんだけどな」  さらりと毒を吐き、嫣然と微笑む。こんな時、この友人を怖がる秘書の気持ちが自分もわかる気がする。本当にこの男は、果たして自分の友人なのかと疑わしく思ってしまう。その美しい藍色の瞳の中に、欠片の情も見いだせない、こんな時には……。 「おまえの秘蔵っ子を任せる相手として申し分ないだろ、と言っている。そろそろ良い相手を見繕ってやるのも上司としての責務だろ? ――彼はあれでもΩなのだから」  まさか忘れていたわけじゃないよね、と友人は(わら)った。  ――正直に言えば、忘れていた。  Ωだと知っていても、Ωだと見ていなかった。  彼は、あくまで自分の補佐で、後輩で、秘書で、――αやβやΩといった括(くく)りからは外れた存在だったのだ。  だからこそ、他の何ものにも代えがたい存在でもあった。  自分が伴侶を得ても、――たとえ『運命の番』と添い遂げても、彼は変わらず傍に居てくれるものだと、……他の誰かのものになるなどと考えたことすらなかったのだ。 「……無自覚もここまでくると滑稽だな」  夢川の肩を叩き辛辣なせせら笑いを残して、友人はその場を立ち去った。呆然とその場に立ち尽くした自分を、最後に哀れむような眼差しで一瞥し、トドメをさすことも忘れずに。

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