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第6話

 きっかけなど、ほんの些細な事で、――しかし、自分の意識を根底から(くつがえ)すには十分すぎるほどに十分な一幕でもあった。  何しろ、その日から、夢川の頭の中は秘書の事で一杯になってしまったのだから。  秘書との出会いは、決して美しいものではなかった。  ……美しいどころか、むしろ、これから先もあれほど「汚い」出会い方はないだろう、というくらいには酷い出会い方だったように思う。  もちろん、電流も流れなかったし祝福の鐘も鳴らなかった。  Ωのフェロモンすら、あるのかないのかよくわからないくらい希薄だった。あまりにΩらしくないので、自分はずいぶん長い間、彼のことをβだと勘違いしていたほどである。  彼との出会いは、想像していたどんな運命の出会いとも違った。  かわりに、――深く脳裏にこびりついているのは。  涙と鼻水で……百年の恋も冷めてしまいそうなくしゃくしゃに崩れた汚い泣き顔で。  でも、おかしなことに、やや潔癖症のきらいもあるはずの自分が、鼻水を制服に擦(なす)り付けられても怒りもせずに、汚れた顔を拭くためのハンカチを貸した挙句(持っていないというので)、鼻をかむためのティッシュも提供し、泣き止ませようと偶々(たまたま)ポケットに入っていたアメを与え、泣いていた理由まで聞きだし、親身になって己の恥をさらしてまで慰めるという…、極めて自分らしからぬ行動をとっていた。  ――今になって思えば、そのすべての行動こそが彼が『運命』であることの証明に他ならないのだと気づきもするが、当時の自分にはわからなかったし、それどころか、つい最近になるまでもわかっていなかった。  ……いや、厳密に云えば、未だに彼が探し求めていた『運命』であるという確信はない。  この世界のどこかに自分の『運命』は他にいて、別の人生を歩んでいるのかもしれない。  だが、もう、探したいとも思わなかったし、今さら『運命』に出て来られてもきっと彼に恋い焦がれるこの気持ちを覆すことなどできやしないと思えた。  ずっとずっと…当たり前に傍に居て。  ずっとずっと…当たり前にこれからも傍に居るのだと、なぜか信じて疑わなかった自分の補佐役。  平凡なくせに尊大で。  平凡なくせにフォローが上手くて。  平凡なくせに、誰よりも――的確に夢川理という人間を把握していた。  『運命』どうこうじゃない。  そんな言葉じゃ言い表せない。  彼は、なによりも失えない人間だと、……失う危険性を、他のαに奪われる可能性を知り、ようやく自分は自覚したのだ。  彼が、唯一無二の相手だと。

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