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第3話
田辺は優しい。出会った頃に比べたら、雲泥の差だ。
まるで他人のようだと思うこともある。
まず、口調からして違っていた。粗雑な語尾も、投げやりな言葉もなく、いつも丁寧に呼びかけられる。恋愛状態になれば、ざっくばらんに素が出るものだと思っていた大輔の常識は覆された。
好きなものを大事にする感覚が異なっているのだ。
大輔もいままで、自分の懐に入ってきたものは、友人でも恋人でも『大事』にしてきた。互いの関係を守り、相手の自由を許せば、それが好意の証だ。当然、相手も同じようにしてくれると思っていた。
しかし、彼らが傷つけば自分も傷つくと思ったのは、自己愛の延長線だったかもしれない。結婚生活が破綻した原因のような気もした。
気にしていないと口にしても、折りに触れて思い出す。『家族』になると決めた相手に嫌われたことは、ちょっとしたトラウマだ。
もしかしたら、同じように田辺を傷つけ、心がすれ違っていくのかもしれない。
そもそも、心は噛み合っているのだろうか。
ふいに湧いてきた疑問を胸に、大輔は上田城跡を田辺と歩いている。
歴史は得意じゃないが、田辺の説明をあれこれ聞くのは楽しくて、ふぅんふぅんと相槌を打つ。
楽しませようとしているのだろう。田辺は柔らかな口調で会話を続け、「俺ばっかりが話してる」と困ったように顔をしかめる。
そんな仕草も絵になりすぎて、大輔は地面を覆い尽くす枯れ葉を、わざと音高く踏みしめる。
おまえの話は楽しいと、その一言が口にできなくて沈黙が続く。
伊豆に行ったときは、なにを話していただろう。それを思い出そうとして、大輔はブルブルとかぶりを振った。
思い出しても仕方がない。あれは過去だ。まだ、なにも始まっていなかった頃だ。
比べてどうなるものでもない。
「どうしたの」
「……おまえばっかり話をさせて、悪いな……とか?」
「じゃあ、次は大輔さん」
「えー。べっつに、ないよ。話すことなんか」
軽い口調で答えてしまってから、これはよくないと思い、くちごもった。
まるで話をしたくないみたいだ。
「……いや、おまえみたいに歴史にも詳しくないし」
「野球の話でもいいけど?」
「ここで? おまえ、興味ないだろ」
「でも、大輔さんには興味があるから。好きなことを教えてくれたら、嬉しい。ここに関係なくてもいいんだよ」
田辺がうつむき、枯れ葉を蹴る。らしくない仕草に、大輔は目を細めた。
ヤクザ然とした粗雑な口調の田辺と、丁寧で優しい口調の田辺。
どちらが、本当の姿なのかを見定めてみたくなる。
「おまえってさ。付き合った女にはめちゃくちゃ優しくするタイプなんだろうな」
「え……?」
「普通は『自分のもの』にしたら、ぞんざいに扱ったりするだろ。気を使わなくてもいい相手になるじゃん」
「俺は違うと思ってる?」
肩で息をついた田辺は、両手で髪をかきあげる。
「なんで、いきなり、こういう恥ずかしい話を振ってくるんだろうな。あんたは」
首の後ろに手を回し、うつむいたまま、足を止めた。
上田城には天守閣が残っておらず、城跡は広い公園になっている。ふたりがいる本丸跡には、背の高い木々が枯れ枝を伸ばしていた。遠くに石碑が見える。
「恥ずかしくないだろ。モテる男は違うなー、って思ってるだけだ。別れるときまで優しいわけじゃないよな」
「……大輔さん」
顔を上げた田辺が手を伸ばしてくる。大輔は、あたりに目を配った。
散歩している老人と、まばらな観光客。こちらを気にするような人間はいない。
「そういう話って、裏を読んでしまいそうなんだけど」
「ん? なんで?」
大輔は素直に首を傾げた。素朴な疑問のつもりで口にしたのに、田辺の受け取り方は大げさだ。
「……あんたって……」
息を吐くように笑い、田辺はまたうつむいた。腕を掴んでいた手がするりとはずれ、大輔はどこか物足りない気持ちになる。
こんなところで抱き寄せられたくはない。しかし、近づいた田辺が離れていくと、胸の奥の、深いところがチリッと痛む。
「確かにモテてきたよ。従順な女には困らなかったし。でも、優しくはなかったと思う」
「相手が勝手に泣くんだろ」
大輔は後ずさって背中を向けた。
「もう、行こっか。一通り見たんだろ」
自分で投げた話題を放り出して、数歩進んでから田辺を振り向く。
「勘違いしてるんだよ、大輔さんは」
大股に近づいてきた田辺が横に並び、ふたりして駐車場へ戻る。
「これでもヤクザの端くれだし。特別な相手は作らないできた」
「恋人はいただろ?」
田辺はまだ結婚したことがない。しかし、ずっと独り身だったわけではないだろう。
「カノジョとセフレはね。その程度だよ。俺だって普通の男だ。身も心も快適で気持ちよくしてくれる相手を選んできた。だからさ……。それと、これは、違うんだよ」
「じゃあ、なんで、俺にはこんな感じなんだよ」
「冷たくされたいの?」
怪訝そうに見てくる田辺の肩へ、軽く拳をぶつける。
「バカ、違うだろ」
「じゃあ、いままでの女に嫉妬してくれてるとか」
「くれてる……じゃねぇよ。してない」
同じ男が相手なら別だが、女相手にはなにも感じない。田辺ほどのいい男なら、女は鈴なりに集まってくる。当然の話だ。
「してよ」
甘い口調で言われ、大輔はとっさに距離を取る。
人気のないところへ引きずり込まれそうで、警戒心を露わに一瞥を投げた。
「……ん。そうだった。おまえは、悪い男だった」
言いながらスタスタと歩き、駐車場へ入る。満車にはほど遠く、数えられそうな台数がちりぢりに停まっている。
赤いクーペを目指していると、後ろから追ってくる田辺を呼び止める若い女の声がした。
「すみません……。車のエンジンがかからなくって……。見てもらえませんか」
いかつい大輔をスルーして、見た目も涼やかな田辺に声をかけたのだ。
社会人と断定するには幼さを残したロングヘアとボブカットのふたり組は、いまにも泣き出しそうな顔をしている。女子大学生かもしれない。
大輔は足早に戻り、小型車のナンバーを見た。
その間にも田辺が彼女たちに答える。
「レンタカーだろう? 営業所に電話して……」
口調こそ柔らかいが、はっきりとした拒絶の態度だ。
「ドアロックか、バッテリー上がりだろ」
大輔は口を挟んだ。プライベートとはいえ、警察官の血が騒ぐ。
免許証を取得して日が浅いと、ちょっとしたトラブルにもパニックになってしまうものだ。
「キーが回らないんだろ? 試してみるから、貸してくれる?」
手を差し出すと、落ち込んでいた女の子たちの顔がパッと明るくなった。
「お願いします……ッ」
車に乗り込んだ大輔は、サイドブレーキがかかっているのを確認して、キーを差し込んだ。ハンドルを左右に動かしながらセルを回してみたが、反応はない。
ライトのスイッチも消灯になっている。車を降りて、女の子へ声をかけた。
「ハザードランプを焚いたままにしなかった?」
「ハザ……、ランプ?」
運転手を務めていたのだろう女の子が、頼りない仕草で首を傾げる。
「チカチカするランプ。助手席と運転席の間にある、三角形が描かれた赤いボタン。押さなかった?」
「地図を見るときに……押した、かも……?」
淡いピンクのくちびるに指を当て、長い髪の女の子は青ざめた。ハザードランプを消した記憶もなければ、つけたままにした記憶もないのだろう。
ウィンカーの出しっぱなしよりはレアなケースだが、チカチカさせたまま走る車もたまにいる。
「いいよ。だいじょうぶ。バッテリーが上がったんだと思う」
バッテリーはエンジンに点火するための電源だ。エンジンを切った状態でランプを使用していると空になってしまうことがある。
これも初心者ドライバーには、ありがちなミスだ。
「別の車に繋げば、エンジンはかかるけど……」
田辺の車にケーブルが乗っていれば、バッテリー同士を繋いで対応できる。
「ちょっと、待ってて」
田辺の姿が見えないことにようやく気がつき、大輔は慌てて車まで戻った。すると、ケーブルを手にした田辺が携帯電話を片手に話していた。
「忙しいところ、悪かったな。それじゃあ、また今度」
大輔に気づき、小さくうなずく。ちょうど会話が終わり、画面を操作しながら近づいてきた。
「バッテリー上がりだった? 一応、車に詳しいヤツに確認しといたよ。外車と小型だから大丈夫かと思って」
「あー、そっか。問題ない?」
電気制御されている場合、他の車とバッテリーを繋ぐことは避けるように、メーカーからの告知がある。実際は可能だが、もしもの故障を懸念しているのだ。
「繋いだら、五分ほど置いてからエンジンをかけろって」
「……誰が?」
まさか兄貴分の岩下ではないだろう。そう思いながらも、万が一を考えてしまう。しかし、田辺の返事は「岡村(おかむら)」だった。
「車に詳しいんだ。コッチじゃなければ、整備士にでもなってた」
「へー。なるほど」
大輔はしみじみとうなずいた。
岡村は田辺の同僚だ。彼は正統な岩下の舎弟で、正規の大滝組構成員でもある。
経歴はよく知らないが、車やバイクに詳しい不良の転落なら想像がつきやすい。
田辺がクーペを動かし、女の子たちの車の前に向かい合わせで停める。互いのエンジンをブースターケーブルで繋ぎ、岡村の助言に従ってしばらく待った。
その間も、車の出入りはない。
大輔たちが来るまで三十分近く途方に暮れていたと言う彼女たちは、やはり大学生だ。来年の卒業を前に免許を取り、長野市内から一泊旅行に来たと話す。
時間つぶしの雑談のあとで、大輔と田辺がそれぞれの車に乗り込み、エンジンは無事にかかった。
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