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第2話
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「よお、無事に生還したか」
倉持がバース課にある自分の席に着くと、倉持のシャツと同じ、いやもしかしたらそれ以上によれよれとしたシャツを着た男が声をかけてきた。同期で友人でもある真備(まび)宏和(ひろかず)だ。なかなかの色男で、女性の噂も絶えない彼は、バース課の分析官である。手にはマグカップを持っており、その中には煮詰まった、いわゆる黒に近い色をしたコーヒーが入っていた。
「ああ、どうにか起きたよ。真備、お前、少しは寝たのか?」
「俺の上司の特別管理官殿が仕事の鬼でね。寝ているどころじゃないのさ」
上司の特別管理官というのは、倉持のことだ。同期であるが、倉持のほうが階級は上で、分析官の真備はその下に就く。だが二人だけの時などは言葉遣いもラフなものになった。
「俺がどうこうで、お前は気を遣うようなタマじゃないだろ。細かいミスは命取りだから、少しは寝ろよ」
そう言うと、真備が手に持ったマグカップに口をつけてコーヒーを流し込み、顔を顰めた。どうやら相当煮詰まった苦いコーヒーのようだ。
「もうすぐ最後のデータの結果が出るから、すべてのデータをまとめたらお前に送る。それから思い切り寝るさ。今寝たら、起きる自信がない。それより、この書類の山、デッドが十時なんだって?」
「言うな。頭が痛くなってくる」
倉持は手で真備をシッシと追い払うが、真備が悪戯っぽく片眉を上げながら近寄ってきた。そして周囲の人間に聞こえないように、椅子に座っている倉持に躰を屈め、小声で話を続ける。
「ふぅん……。あの殿下以外にもお前の頭を痛くさせるものがあるとはな。ってことは、書類の山に相当手こずっているってことか」
真備の茶々に、思わず睨む。
「……お前、わざと俺を怒らせようとしているだろう?」
真備の口端が悪戯っぽく持ち上がったかと思うと、屈んでいた躰を起こした。
「どうかな? 徹夜続きでちょっと口が滑っちゃっただけかもぉ」
大男がシナを作って言ってくるが、もちろん、まったく可愛くない。
「ほぉ……どうやら真備分析官は仕事が物足りないようだな。こちらの事件の分析も君に回したほうがよさそうだ」
言葉遣いを改め、机に積み上げられているファイルから一つ太いファイルを抜き出して、それを真備の前に差し出してやると、彼が大袈裟に慄いた。
「うわ、やめてくれ。今の仕事で充分だ。生かさず殺さずの絶妙な仕事の分量だってぇの」
まるで恐ろしいものでも見るかのように怯えた、もちろん彼の演技だが――目でこちらを見つめ、首をふるふると激しく横に振った。
「フン」
倉持はファイルを元の場所に戻すと、再び机の上の書類に目を向けた。
「……なあ、倉持」
背後で今までとは違う、真面目な声色で真備が話しかけてくる。また他の人間には聞こえないくらいの小声だ。倉持はそれを耳だけ傾けて聞いた。
「あの殿下のことは、上には報告しているのか?」
あの殿下――。
思わず舌打ちしそうになる。本音を言えば、『あの殿下』のことを話題にされたくなかった。倉持の弱い部分に触れられるような感触が嫌なのだ。だがそれをあからさまに認めるのも嫌で、溜息一つで感情を誤魔化した。
「――協力者として報告している。上司も承知だ。問題ない」
「協力者? 排除しなくても大丈夫なのか? あの殿下、エクストラ・アルファなんだろう? そんな男に……お前、あんなにあからさまに粉かけられているんだぞ。本当に大丈夫か?」
真備の声に真剣みが帯びる。倉持のことを本気で心配してくれている証拠だ。
エクストラ・アルファ。
それはアルファを凌駕する進化形アルファ――。世界で現在百人程度確認されており、少しずつ増えている新種のバースで、それまでトップだったアルファを退け、現在バース性最高種とされている。
多くの能力を持っていることもあり、今や、誰もが畏怖を抱く存在となっていた。
中でも一番恐れられている能力は『バース変異』だ。エクストラ・アルファには、相手がアルファであろうとベータであろうと、つがいと決めた相手ならオメガにしてしまう力があり、それが発覚したときは、他のバース、特にアルファのバースである人間は戦々恐々とした。
「大丈夫だ。俺がそれに靡かなければ問題ない」
「……エクストラ・アルファは、アルファをアルファオメガにできる。気をつけろよ」
アルファオメガ――。
エクストラ・アルファがアルファの人間をつがいとして欲したときにだけ変異して現れる特別なバースのことを指す。
アルファの才覚を持ちつつ、オメガの生殖の強さも併せ持ち、産む子供はアルファ、またはエクストラ・アルファのみだと報告されていた。そのため、現在、犯罪に巻き込まれるのを理由に、このバースの存在は日本国内では秘密にされている。
厚生労働省のバース管理局の保護対象とされており、無条件で特殊部隊が動くのも、このバースだけだった。
アルファだった人間が、突然オメガに変異する――。
考えただけでも恐ろしい話だった。倉持も身近に聖也という例があるだけに、人一倍、その大変さは知っているつもりだ。ただ、将臣と彼の伴侶の聖也はその困難を乗り越え、幸せに生活しているので、まったくの絶望とは限らないことも理解している。
「……バースチェックは欠かしていない。真備、お前こそ気をつけろよ。殿下はお前みたいな男がお好みのようだ」
「まじか」
本気で驚いたようで、真備が固まる。その様子につい噴いて笑ってしまった。
「さてな」
二人でしばし見つめ合う。そしてほんのわずか後で、真備が安堵の溜息をついた。
「はぁ……脅かすなよ、ったく」
「お前が茶々入れるからだろ」
「茶々って……実際、問題になるんじゃないのか?」
「ならないさ。そんなに長く彼から情報提供をしてもらおうと思ってないからな」
さらりと本音が零れた。自分は彼からある程度の情報を得たら、すべてを終了させるつもりであった。長く関係を続けるつもりはない。
「そうなのか?」
真備が怪訝そうに尋ねてくる。
「ああ、そうさ」
答えることで、自分の考えを肯定した。だが、真備はまだこちらを不審そうに見つめている。
「なんだよ」
「あ、いや。少し安心しただけだ」
「何に?」
「なんだろうな。ま、いいや。それじゃ、俺もそろそろ分析室に戻るわ。じゃあな」
彼は手に持ったマグカップを軽く掲げて、部屋から出ていった。それで彼が特別に何も用事がないのに、ここへ顔を出したことにふと気づく。たぶん倉持が無事に仮眠室から起きてきたかを、わざわざ確認しに来てくれたのだろう。
あいつ、本当におかん気質だな……。
つい笑ってしまう。
「さて、朝の十時までに、残りの書類、全部チェックしないとな」
周囲を見渡すと、朝の四時だというのに、明かりが煌々と輝き、他の課員も書類や後始末に追われていた。昨夜は大きな摘発であったし、労働省の特殊部隊とあくまで偶然に鉢合わせたという形にするべく、書類上の辻褄合わせに苦労しているのだ。
「くだらない後始末だが、それが国家公務員の宿命……はぁ……」
ぼやきながら、倉持も書類のチェックを再開した。
どれくらい経っただろうか。黙々と書類を片づけていた倉持のスマホが、椅子にかけてあったスーツの上着のポケットで振動しているのに気づいた。
慌ててポケットからスマホを取り出すと、見知らぬ番号が表示されていた。いや、正確に言うと、一度だけ見たことがある番号だ。それもあまり出たくない番号であることも覚えていた。
出ずにいて、逆に意識しているように思われるのも癪なので、乱雑に通話ボタンをタップし、勢いで出る。
「はい」
『後始末に追われているのか?』
甘く低い声が倉持の鼓膜を揺らした。
「どちら様なのかわからない電話で、そんな質問には答えられませんね」
席を立ち、部屋の外へ出ながら吐き捨てると、通話口の向こうから低く笑う声がする。倉持が不機嫌に電話に出ることを予想でもしていたのだろう。倉持が男の思い通りの出方をしたので、どうやら喜ばせてしまったようだ。
「間違い電話のようですので、切らせていただきます」
本気で切ろうと指をスマホに滑らせたときだった。男がようやく笑いを止めた。
『私だ。昨夜の捕り物の礼を受け取っていないのだが? 忘れてはおるまい?』
「っ……」
つい言葉が詰まってしまった。男に隙を与えたと言ってもいいかもしれない。案の定、男は嬉々として言葉を続ける。
『まさか、善良なる一般市民からの有力な情報を、お前一人の手柄にするのか?』
「……どこが、善良なる、ですか。しかも一般市民ではないでしょう、あなたは」
一国の王子と話すには、あまりにもぞんざいな敬語だが。
『元気だな。それくらい元気なら、今夜会えそうだな。九時に仕事を終わらせろ。警察庁前まで迎えに行く。お前が少しでも遅れると、私の車を見て皆が騒ぐだろうから、遅刻はお前のためにもしないほうがいいぞ』
「迎えになんて来なくていいです。悪目立ちする」
『迎えに行かないと、逃げるだろう?』
行動を読まれている。
「だから人の話を聞いてください」
『お前もたまには私の言葉を聞け。ではまた夜に』
その声とともに、通話音の切れた音が聞こえた。まったく倉持の話を聞く気はないという態度だ。
「くそっ、この色ボケ王子が」
一応、辺りを気にして、小さく悪態をつく。
この男、サルージュ王国の第三王子のカーディフは、今回の捕り物で倉持に重要な情報を流してくれた立役者でもあった。
だが男には最大なる欠点があった。
倉持健司のことを愛していると堂々と口にするという恐ろしき存在なのだ。
頭が痛い……。
頭痛の原因が、書類の山からカーディフの存在に変わった瞬間だ。
確かに倉持も悪かった。秘密クラブでの違法オメガの取引情報を目の前にちらつかされ、つい、寝てもいいと言ってしまった過去がある。だが、それは一回のはずだった。そう一回の――。
それなのに、カーディフはそれ以降も、かなり信ぴょう性の高い情報をちらつかせては、倉持との関係を続けたのである。
結局、今となっては、彼からの情報を躰で買っているという、淫らな関係に陥っていた。
どこで、どう間違えたのか――。
「ああっ! やめた、やめた。考える時間もない。書類を全部仕上げてからだ」
早急に考えなければならない案件かもしれないが、今は無理だ。仕事で手いっぱいだ。まともに思考が働かない。
倉持は額を指で支えながらバース課へと戻った。
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