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袖すり合うも多生の縁

(五) 「さて、これからどうしようか」  公儀に目を付けられていることを考えた藤次郎は、飲んだくれの遠い親戚がいる長屋へ帰ることもできず、路頭に迷ってしまった。  青空にはお天道様が顔を出している。  行く当てもなく橋の上をぶらついていると、どこからか男の怒鳴り声が聞こえてきた。それと同時に、藤次郎の足が何かにぶつかった。  びっくりして見下ろすと、そこにはまだ五歳ほどの赤い着物を着た少女が転んでいるではないか。 「すまなかった、大丈夫か?」  藤次郎が少女を起こすと、怒鳴っていた中年男が血相を変えてやって来た。 「お侍様、助かりました。そいつはコソ泥なんです。さあ、食い物を返しなっ!」  中年男は店の主人らしい。藤次郎がよくよく少女を見れば、紅葉ほどの可愛らしい小さな手には饅頭がひとつ。握り閉められている。  主人は手を伸ばし、饅頭を持っている方の、少女の細い腕を引っ掴んだ。 「っ!」  大人の――しかも力の強い男に腕を強く掴まれた少女の顔が苦痛に歪む。それでも少女はよほど飢えているのか、饅頭を離さない。  そこで藤次郎は少女の身なりを改めて見た。  赤い着物の裾は所々に泥が跳ね、裾が破れている。  飯もどうやら食べさせてもらっていないようだ。絹のような肌は擦り傷や切り傷があった。  母親や父親はどうしたのだろう。周囲を見渡しても姿が見えない。 「ちょっと待てよ。たかが饅頭ひとつじゃねぇか。そんなに怒ることはないだろう?」  少女を見かねた藤次郎は見世の主人に食って掛かる。藤次郎もまた、少女のような過去があった。自分と少女の姿が重なり、居ても立っても居られなくなった藤次郎は主人を止める。  懐を探り、銭を取り出そうとするものの、昨夜のいざこざで財布をどこかに落としてきたらしいことを知った。 「そうはいきやせん。こちとら商売してるんですよ。そこまで言うんでしたら、お侍さんが金を払ってくださるんですかい?」 「それは……」 「だったらこれ以上首を突っ込まないでくだせぇ。さあ、来い!」  腹を空かせている幼子を、店の主人はまるで罪人扱いだ。少女を引きずるようにして連れて行く。 「待ってくれっ。金はすぐに取ってくるから、だから!!」  唇を引き結び、泣き言一つ言わない少女が不憫でならない。藤次郎はなんとかならないかと主人に交渉を図る。そんな時だ。大きな影が藤次郎をすり抜け、店の主人の前で止まった。 「ほら、金はこれで足りるか?」  男はそう言うと主人に銭を渡し、少女を解放した。 「払ってくれればそれでいいんだよ。じゃあな、嬢ちゃん」  主人は、さっきとは打って変わって、少女の頭をひと撫ですると上機嫌で店に戻って行った。  さて、少女を助けたこの男はいったい誰なのか。藤次郎は眉を潜め、相手の顔をまじまじと見ると、片目に傷を負った背の高い男がいた――。この男は忘れもしない。藤次郎を抱いた、一目惚れの相手だ。 「あんたはっ……」 「姿が見えないからどこに行ったのかと思ったが……ほぅ? なかなかいいところがあるじゃねぇか?」  男は少女と藤次郎を交互に見ると、にやりと笑った。 「これはっ! たまたま……」  思いがけない二度目の逢瀬に藤次郎の胸が高鳴る。しかしいくら事故だとはいえ、藤次郎は否定しなかった。旗本の若様を傷つけた罪人になっている。  旗本は上様直属の武士だ。彼らがどういう人間であろうとも傷つけることはすなわち、上様に逆らう逆賊となる。その証拠に、公儀の者であろうこの男は、旗本の若侍を傷つけたということだけでこうして藤次郎を追って来たのだ。恐ろしいことになりかねない。  藤次郎はどうにか隙を見つけて逃げようと試みるものの、けれど先ほどこの男が助けた少女が藤次郎の袖をしっかり掴んでいる。  これでは逃げることは愚か、どこにも行けやしない。 「懐かれたな。さすがのお前ももう逃げられまい」  図星だった。男の言葉に何も言い返せず、藤次郎は口ごもる。 「さて、どうするかな……」  顎に手を当て、考えているその様も素敵だと、藤次郎は男に見惚れてしまう。  しかし旗本に喧嘩を売ったことになっている自分は罪人として扱われている。いったいどうなってしまうのか。  恐くないと言えば嘘になるが、それ以上にこの男の傍にいられるのは嬉しいと思うのはおかしいだろうか。  藤次郎は複雑な思いを誤魔化すようにして、自分の裾をしっかり掴んで離さない少女を見下ろした。 「この子、腹減ってんだ。あんたが助けたんだ。責任取って飯を食わせてやれよ」  藤次郎は顎で食事処を差した。  男は罪人となってしまった藤次郎を見やる。  しかし怒る素振りはまるでない。口元に微笑を浮かべ、小さく頷いた。

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