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ひとつ屋根の下
(七)
どこからか、野良犬の遠吠えが聞こえる。
すっかり夜も更けた頃。藤次郎は銀之助と向かい合い、ほろほろと酒を飲んでいた。
ひょんなことから銀之助の屋敷で共に暮らすことになった少女はよほど疲れていたのだろう、隣の座敷で寝息を立てて眠っている。
「正直、お前が居てくれて助かった。女はともかく、子供を手懐けるのは俺の許容範囲じゃねぇ」
銀之助はそう言うと、杯に注いだ酒をひと息に飲み干した。鷹のように鋭い目は藤次郎を写している。その目は熱を帯びているような気がした。
銀之助は藤次郎を欲している。そう実感すると、藤次郎の胸が大きく跳ねる。
「……俺を、手籠(てご)めにでもするつもりなのか?」
杯を持つ手が震えた。
藤次郎が震えたのは、たとえ身体だけでも好いた相手に求められるのが嬉しかったからだ。銀之助は少しでも自分の身体を気に入ってくれたのだろうか。
どうせ銀之助とは身分が違うのだ。叶わない恋ならば、せめて一夜の相手でもいいから傍にいたい。藤次郎自身、自分がここまで健気だとは思ってもいなかった。
「たしかに、お前以外にも男女問わず何人か抱いたことはある。否定はしねぇさ」
途切れてしまった言葉に、藤次郎は銀之助を見やる。彼は杯を見つめるばかりだ。それっきり口を閉ざしてしまう。
隣の座敷で眠る少女の寝息だけが聞こえてくる。
そして長い沈黙の後、銀之助は言いにくそうに口を開いた。
「……柄にもねぇ。この年で一目惚れとは……」
ぽつり、と銀之助がそう言うと、彼の腕が藤次郎に伸びた。
「……あっ……何をっ」
藤次郎は肩を引き寄せられ、たくましい腕の中に包まれてしまった。
包まれた身体が熱を持つ。藤次郎の胸が大きく鼓動する。
「銀之助、そう呼んでくれて構わない」
「銀之助、様……っふ」
薄い唇が藤次郎の唇を塞ぐ。気がつけば、藤次郎は銀之助に押し倒されていた。
「お前は俺に抱かれるのは嫌か?」
訊ねられたその声が――表情が苦しそうで……藤次郎の心臓がどきりと跳ねた。
嫌なわけがない。藤次郎の方こそ一目惚れで、このような感情は抱くだけ無駄だと思っていたのだ。
小さく首を振れば、二度目の接吻が与えられた。
その口づけは初めての時とは違い、優しい。まるで恋人とするような労りを見せる接吻だった。藤次郎の身を焦がす。
「お前の名は何という?」
「藤次郎……」
これで何度目の質問だろう。名を訊ねられ、今度こそ、藤次郎はすんなりと自分の名を名乗った。
「藤次郎。いい名だな……」
銀之助の唇が藤次郎の首筋を這う。藤次郎だって銀之助が欲しい。けれど隣の座敷には少女が眠っている。
「あっ、待って……」
「待たぬ。これほどまでに誰かを欲したのは生まれて初めてだ」
子供がいる手前、淫らなことはできないと銀之助の分厚い胸板を押す藤次郎に、けれど銀之助は受け入れず、藤次郎の着物の合わせ目を開いた。
「あっ……」
薄い唇が藤次郎の鎖骨を食む。銀之助の熱を感じた藤次郎の細い腰が大きく跳ねた。
彼の手が藤次郎の太腿を円を描くようにして撫でる。あらわになっていく下肢――。
銀之助は藤次郎の絹のようなしっとりとした肌触りを楽しんでいた。
藤次郎はこのまま銀之助に抱かれるのかと彼の広い背中に腕を回したその矢先だ。
「銀之助様! あの子の親がだれだかわかりやしたぜっ。父親は流行病で。母親は数ヶ月前、仕立てを終え、注文を届けに家を出た時に早馬に蹴られ、亡くなったそうでごぜぇやす」
突然、縁側から人影が現れた。その人物は昼間、少女を連れて訪れた番所の役人だった。
少女の身元が判明し、飛んできた役人は、しかし藤次郎を組み敷いている銀之助の艶事の真っ最中であることに気がついた。
藤次郎は慌てて銀之助から離れると、乱れた裾を引き寄せる。
「あ、すいやせん。お邪魔でしたかね?」
銀之助の恐ろしい剣幕が不作法な役人を射貫く。
「……母ちゃん、父ちゃん」
異様な雰囲気が流れる中、少女の悲しげな声が隣の座敷から聞こえた。
襖から藤次郎たちが少女を覗き見る。
どうやら寝言のようだ。目尻におはじきほどの大きな涙が浮かんでいる。
「可哀相に。両親の夢でも見ているんですかね」
役人が口を開いた。
「迷子石には貼り付けてきたが、このまま……もしあの子の引き取り手が現れなければ、このまま三人で一緒に暮らすか?」
「えっ?」
「あの子供はお前に懐いているし、できんこともないだろう」
それはつまり、藤次郎が銀之助の傍にいてもいいということだろうか。
藤次郎の胸が熱くなる。
藤次郎が銀之助を見れば、彼は真剣な面持ちで少女を見つめている。
あまり笑わない仏頂面をした銀之助の意外な一面を垣間見た藤次郎は驚きを隠せない。同時に、人間らしいこの男にますます深みに填(はま)っていきそうで、藤次郎は恐かった。
少女の名は、『はな』というらしい。
おはなは藤次郎と初めて出会った頃よりも少しずつだが話すようになっていた。
ひょんなところでおはなと出会ってから数日経ったある日のことだ。銀之助は迷子の少女が亡き娘に似ていると、町名主から引き取りの話を受けた。町名主は曲がったことが大嫌いな人物で、実直な人柄だった。町名主を悪く言う人物は誰ひとりとしていない。そこで藤次郎と銀之助は彼におはなを託すことにしたのだった。
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