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物的証拠④
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「雨花様」
「え?あ、はい!なんですか?」
曲輪に戻って来てから、ずっと緊張していた。
今日皇、渡ってくるの?
いちいさんは何度もオレを呼んでいたらしい。
ようやく返事をしたオレを見ると眉を下げて『大丈夫ですか?学園祭のお疲れが出たのではないですか?』と、コーヒーカップを渡してくれた。
中味はホットミルクだ。
カップを受け取った時、ふわりとミルクのいい香りがして、何故だか無性に泣きたくなった。
いちいさんの前でオレは、今までどれだけ泣いてきただろう。
ずっと心配かけっぱなしだ。
いつもオレを見守って応援してくれるいちいさんに、何のお返しも出来ないまま……ここを出て行く日が、来る、のかな。
いちいさんは、オレに足りないのは『自信』だって言ってくれた。それって、いちいさんはオレが皇の嫁になれるって、信じてくれてるってこと?
あの時、皇の誕生石をもらうのはすごいことなんだから、自信を持ってって言われたけど、そのあとすぐ母様に、誕生石をもらうのはすごいことじゃないって否定されて、めちゃくちゃ凹んだっけ。
……帯飾り以外、何かある?
いちいさんの中で、オレが皇の嫁になれると思える根拠は、なんなんだろう。
皇の嫁になれないって根拠なら、自分でいくらでも挙げられるのに。
「気分がすぐれないのでしたら、若様にお断りの連絡を……」
「いえ、大丈夫です」
今日皇に会ったら、オレが選ばれないことが、ハッキリしてしまいそうで、怖い。
だけど、怖いからって今日逃げても、いずれ向かい合わないといけないことなんだ。
『誠心誠意、鎧鏡家に忠義を尽くしてくれ』という父上の言葉が、ふっと蘇った。
オレは……皇の嫁になれないとしても、柴牧青葉である限り、皇の家臣であり続けるんだ。
母様と一緒に、お館様の奥方候補だった人たちって、今どうしているんだろう?
オレは一生、皇の近くで、皇がオレじゃない誰かを幸せにしている姿を、眺め続けていかないといけないの?
それならいっそ一家臣として、皇に仕えているんだと思えば、少しは気が楽になれるかもしれない。
他の候補様たちも、こういう気持ちなのかも。
駒様なんか、特にそうだよね。
皇が違う人のところに渡るのを、送ってるんだから。
駒様の気持ちがずっとわからなかったけど、候補ではなく家臣だと思えば、もしかしたら、駒様と同じように出来るのかもしれない。
気持ちを切り替えればオレも……それくらいに、なれるの?
「若殿様のお渡りでございます」
「はい」
皇は、予定通り渡って来た。
やっぱり何とも思ってないの?
どんな顔で迎えたらいいのかわからない。
逃げないって決めたのに、今すぐ逃げたい。
座礼をしながら、下唇をギュッと噛んだ。
頑張れ、オレ。大丈夫。どんなにイヤなことが待っていても、いつか絶対終わるんだから。
引越しばかりで転校続きだった頃、皆の前で挨拶するのをイヤがっていたオレに、柴牧の母様はいつもそう言ってくれた。
今どんなにイヤだと思っていても、それはいずれ過去になるのよって。
あんなにイヤだった転校の挨拶も、大きくなるにつれて慣れていったみたいに、この胸の痛みも、いずれ過去になって、慣れていくのかな。
「……」
部屋に入って来た皇は、何も言わずに立っていた。
いつもはすぐ駒様に『去ね』って言うのに。
今日は、それすら言わずに動きもしない。
「若様」
「……」
「私は、どう致しましょうか」
駒様が、待ちきれずに質問した。
「……好きに致せ」
その言葉に驚いて顔を上げると、皇と目が合う前にふいっと逸らされた。
駒様を見ると、目を伏せ『それでは失礼させていただきます』と、部屋から静かに出て行った。
皇は、オレを見もしない。オレの存在を完全無視だ。
オレは何も言えず、動くことも出来ないで、正座したまま項垂れ続けた。
皇がベッドに入って布団を掛けたのが音でわかってそちらを窺うと、布団を肩まで掛けている皇の背中が見えた。
「……」
泣いたら、ダメだ。
頭の中でずっとそう言い続けたのに、皇の肩が規則的に上下するのを見て、我慢出来ず、涙がこぼれた。
こんな風に無視するなら、何で渡って来たんだよ!
オレを無視するために渡って来たの?
……ヒドイよ……皇。
だけど。
お前のものになんかならないって言ったのは、オレじゃないか。
背中を向けられて、当然なんだ。
当然かもしれないけど……お前にこんな風に無視されるくらいなら、存在自体、消してほしい。本多先輩に言ってたじゃん!お前になら、出来るんだろ?
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