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オーディエンス⑨

「寒いんじゃないの?中、入る?」 気付くと、皇の吐く息が真っ白だ。 「いや。まだ本丸に戻っておらぬのだ」 「え?今、仕事帰り?」 「ああ」 ……ってことは。 「……おかえり」 そう言えたのが、何かすごく嬉しくて……オレより目線の低い皇の頭を、ぽんぽんって、叩いたんだけど……。 何かちょっと……恥ずかしいことをした感じになってる? オレを見上げる皇が、目を丸くしてる。 急いで手を引っ込めようとすると、皇はオレの手首を掴んで、強く引いた。 「うあぁっ!?」 窓の下に立つ皇が、叫んだオレの口にぴったり唇を合わせて、思いっきり口の中に舌を入れてきた。 「んんっ!」 その時、オレの後ろから『雨花様っ!どうなさいましたか?!』という、焦ったいちいさんの声と共に、勢いよくドアが開く音が聞こえた。 「ぅわああああっ!」 皇に掴まれていて、振り向けない。 見えないけど、いちいさん、入って来たよね? 皇から離れようとすると、皇はオレの手首をさらに強く掴んだ。 ようやく首だけを後ろに向けると、驚いているいちいさんと目が合った。 まず頭に浮かんだのは、渡りでもないのに、皇がここにいたらマズイんじゃないの?ってことで……。 「あの!これは……」 言い訳しようとオレがワタワタしてるのに、皇はオレの手首を掴んだまま『どうした?』と、いちいさんに無表情な顔を向けた。 お前……焦るとかないわけ? こういう時はお前の殿様気質が羨ましいよ。 オレなんか心臓バクバクだっていうのに! 「申し訳ございません。雨花様の叫び声が聞こえたものですから……失礼致しました」 オレを心配して、急いで入って来てくれたんだ。それなのに、変なもの見せてすいません!うう。 「若様、お渡りですか?」 「いや、戻る。……一位、来週の日曜、雨花を連れて外出致す」 「はい。かしこまりました」 頷いた皇が、オレの指先に軽く唇を付けて、手を離した。 「っ!」 きゅうって、心臓が縮み上がる。 馬に乗った皇は、一度だけこちらを振り返って、そのまま走り去っていった。 「……」 胸が、苦しい。 離れていく皇の背中を見るたび、苦しくなる。 会いに来てくれるのはすごく嬉しい。だけど、離れる時の苦しさが、嬉しいのを越えそうで……怖いよ。 「雨花様」 声を掛けられて、ハッとした。 「あ!あの!渡りでもないのに、皇に会ったりして、ごめんなさい。いちいさんに迷惑が……」 こんな風に皇と会ってたら、いちいさんに迷惑が掛かっちゃうよね? 「雨花様」 「はい!」 いちいさんはオレに近付いて『迷惑だなど。むしろもっとガツガツなさっていいんですよ』と、耳元で囁いた。 「えっ?!」 いちいさんは『もう夕餉になりますよ』と、にっこりしながら出て行った。 「……」 ガツガツって言った?むしろもっとガツガツって……。 あのほんわかいちいさんが? え?ガツガツって何? 何なんですか?いちいさん! でも……少なくとも、さっきみたいに皇に会っても、いちいさんは大丈夫って思っても、いいってことでしょうか? 「雨花様、来週若様と一緒にお買い物に行くんですよね?いいなぁ」 「えっ?!」 ダイニングテーブルについてすぐ、あげはがそう呟いた。 咄嗟にいちいさんを見ると、にっこり笑っている。 いちいさーん!何を言いふらしてるんですか!? 「皆に急いで報告させていただきました」 オレにご飯を渡しながら、いちいさんは満面の笑みだ。 そっか。言いふらしたんじゃなくて、皆には言わないといけないのか。そうだよね。オレが外出することになると、いつもとは違う仕事が、皆に増えるのかもしれない。 「お二人でお出かけなさるなんて何か嬉しいです!」 あげはは興奮気味にそう言った。 「……私もです」 「うわっ!ぼたんがしゃべった!」 そう言って驚いたあげはを見て、涙が出るほど笑った。 今朝は皇がいて、昼は小姓の二人はオレとは別にご飯を食べるから、この夕飯が、久しぶりに味わう、いつもの"梓の丸の食卓"だ。 しばらく自分から遠ざけてしまっていたからこそ、すごく感じるのかもしれないけど……本当に"ここ"は、オレの大切な居場所だ。 「雨花様がお元気になられて良かったぁ」 「あげは……」 「本当ですね。雨花様の幸せそうなお姿を拝見しますと……私自身、幸せな気持ちになります」 「いちいさん……」 「ボクも!ボクもです!雨花様が嬉しそうなお顔だと、すごく嬉しくなります!」 その言葉に、周りの皆が頷いた。 オレは、こんな風にオレの幸せを喜んでくれる人たちに、囲まれている。 「ありがと……」 泣きそうになって、最後までうまく言えなかったけど……。 本当に、ありがとうございます。 オレ、皆のこと、ずっと大切にします。 ……皇の嫁になれずに、ここを出る日が来たとしても。

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