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知る知る見知る⑧
つい聞き耳を立てていると、衣織は『秘密です。店長から”お客様に名前教えるの禁止令”が出てるんで』と、ニッカリ笑った。
名前教えるの禁止令ってなんだよ。
だけど、ニッカリ笑いかけられた女の子は『えぇ何それぇ』と、笑って、名前を聞き出せなかったことは、あまり気にしていないらしい。
名前くらい教えたって……って思ったけど、すぐに、この前皇から聞かされた、旧家の人間は本当の名前を明かすのを嫌うって話を思い出して、そういうことなのかな?と、納得した。
女の子たちは『名前が駄目なら連絡先教えて』と、衣織に向かってはしゃいでいる。
そっちのほうが駄目でしょ?と思っていると『え?』と驚いた衣織と、瞬間、目が合った。
うわっ!
「すいません。いつでも連絡受けられるようにしておきたい人がいるんで……」
衣織はそう言うと、その子たちに向かって頭を下げた。
いつでも連絡受けられるようにしておきたい人?……へぇ。
「ぶはっ!ばっつん、いつでも連絡くれだってさ」
隣に座っているサクラが、ゲラゲラ笑っている。
え?
……は?
オレ?そんなわけ……。
え……違うでしょ?
女の子たちが『えー?!』とか『どんなコー?!』とか騒ぎ始めると、衣織は『店内ですので……って、あ、ここ外だけど』とか言いながら、鼻の前で人差指を立てて”しー”のポーズをして見せた。
女の子たちが笑ったあと小声になると、衣織は『失礼します』と頭を下げて、店内に戻って来た。
「モテモテじゃあん、藍田くぅん」
サクラが衣織にそう声を掛けると『他のお客様のご迷惑になりますのでお静かにお願いします』と、サクラのコップになみなみとお水を注いで去って行った。
「ぷはっ!何これ?表面張力?」
サクラは『何?この可愛い嫌がらせ!』と、ホントになみなみお水が注がれたコップを指差して、またゲラゲラ笑った。
『お静かに』なんて衣織は言ったけど、カフェは満席で、ガヤガヤと騒がしい。
ここで打ち合わせっていう雰囲気でもないからと、早々に席を立って会計をしようとすると、衣織が急いでやって来て『もう帰るの?これサービスで出すつもりだったのに』と、デザートが乗ったトレーを差し出した。
「テイクアウトする?」
そう言う衣織にサクラは『する!』と、笑った。
サクラってホントに遠慮がない。
だけど衣織は嬉しそうに『了解!』と言って、颯爽と厨房に向かって行った。
その後ろ姿を見送っていると、衣織を目で追って、何か囁き合っている女性客が、そこここにいるのに気が付いた。
「あいつ、本当にモテモテだな」
かにちゃんが顔をしかめながらそんなことを言うから、オレはつい吹き出してしまった。
「注目集めてるのは、衣織だけじゃないみたいだけどね」
そう言ったサクラの視線を追ってテラス席を見ると、テラス席の人たちが、チラチラとこちらを見ている。
「うっ?!」
ついおかしな声を漏らすと、サクラは『ま、いい男揃いだからね、ボクたち』と、得意気にあごを上げた。
「自分でよく言うよ」
かにちゃんが呆れた顔をすると『だってホントじゃん。この視線が何より物語ってるでしょ?』と、サクラはニヤリとした。
そう言われてぐるりと店内を見渡すと、衣織を追っていた視線が、今はこちらに注がれている。
うわっ!何で?気まずい……と、思っていると、衣織が厨房からデザートが入った箱を持って戻って来た。
「うちのケーキ美味しいよ。雨花、チョコケーキ好きだよね?」
「あ、うん」
確かに好き。だけど、去年の誕生日に皇から貰ったチョコケーキより美味しいケーキには、未だ出会ったことないけど……。
ケーキの箱を受け取ると、衣織は『あれ?』と、オレを見て首を傾げた。
「何?」
「雨花、来た時何か持ってなかった?」
「あ……」
確かに、お昼ご飯を食べながら打ち合わせの続きをするからと言われて、書類を持って来ていた。
でも今、その書類は持っていない!席に置きっぱなしだ!
衣織に言われなかったら、すっかり忘れて帰るところだった。
急いで席に戻ろうとすると『いいよ。持って来る』と、衣織がオレを手で制した。
「お前、ホンットすごいわ」
そう言って感心するサクラに、衣織は『先輩じゃなくて雨花に言われたいよ、それ』と、ニッと笑って去って行った。
「あ!っつか、オレも書類置き忘れてた!」
かにちゃんも同じように書類を置き忘れていたらしい。
『オレのことはどうでもいいのね、衣織クン』と言いながら、かにちゃんは衣織のあとを追った。
「かにちゃん、衣織のアシストかよ」
隣でサクラがボソリと呟いた。
アシスト?何?
それより……。
こんな風に、衣織の好意を感じるたび、どうしてか”あの日”の塩紅くんが頭に浮かんで……。
苦しくなって、胸を押さえた。
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