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知る知る見知る⑫
休みの日の渡りは、皇は早い時間に来ることが多い。
それにしたって今日の皇は、朝ご飯が終わるか終わらないかって時に、渡りを知らせる鈴も鳴らさず、駒様も連れずにふらりとやって来た。
こっちの準備が何も整わないうちに、連絡もないまま来たもんだから、いちいさんは大慌てだ。
「早いよ!」
ダイニングまでやって来た皇を見るなりそう言うと、皇は『あ?』と、顔をしかめた。
「来る前に連絡してくれなきゃ、うちの側仕えさんたちが準備出来なくて困るじゃん!」
「何の支度もいらぬ」
確かに、渡りの準備は、夜伽の準備とも言える。
こんな朝早くから、夜伽のための準備は必要ない……よね?
何の準備も出来ないとか言ってしまった自分が、朝からヤル気満々みたいで恥ずかしくなった。
「あ!皇?」
こういう時は、シロ頼みだ。
「ん?」
「まだシロの散歩に行ってないから、一緒に行こうよ」
今から部屋に籠ったら、何ていうか……何ていうかさ。何か……ちょっと……アレだから、外に出ようと誘ってみた。
「そうか」
「歯磨くから、待ってて」
「ああ」
歯を磨いてすぐに、皇と一緒に、シロを連れて三の丸方面に向かった。
「あ、そういえばさ。衣織んち、昨日夜祭だったんだって?」
三の丸の遊歩道は、相変わらず綺麗に整備されている。まだまだ元気な夏の花と、そろそろ咲き始めてきた秋の花が、少しひんやりした朝の空気の中、すごく綺麗に見える。
「ああ」
「知ってた?」
「藍田家とは親交が深い。夕べはお館様が、藍田の祭りに参列なさったはずだ」
「そうなんだ?」
「そなたこそ、よう知っておったな。衣織に聞いたのか?」
「うん。昨日、衣織さ、祭りがあるからって、早く帰って行ったんだ。あ……あと、夕べ夜祭の写真が携帯に送られてきて……えっと……ほら」
皇に、衣織からのメッセージを見せた。
「そなたは、このような返事を致すのだな」
皇は、夜祭の写真じゃなくて、オレが衣織に一回だけ返したメッセージを指差した。
「へ?」
「普段からこのようなやり取りをしておるのか?」
「え?衣織と?うん。何かと連絡取らないといけないことがあるし」
「そうか。……あれは、未だ諦める気はないようだな」
「え?」
「月が綺麗だなど……恋文のようだ」
夏目漱石が『I LOVE YOU』を『月が綺麗ですね』と、訳した話は、いつだったか、現国の先生が、授業中に話してくれたから知っている。
それより、皇から『恋文』なんて言葉が出たことに、ドキドキした。
「そんな深い意味、ないと思うけど」
「何も思うておらぬ者に、このような文は送るまい」
「……」
衣織が書いてくれた”月が綺麗”ってメッセージに、好きという意味は込められていなかったとしても、確かに皇が言う通り、何も思っていない相手に、こんなメッセージは送らないだろう。
「雨花」
「ん?」
「そなたは、余が守る」
「え?」
皇が唐突にそんなことを言い出すから、持っていたシロのリードを、つい思い切り引っ張ってしまった。
シロはビックリしたようで、大きな顔を恨めしそうにこちらに向けた。
「あ……ごめん、シロ。……何?急に」
「衣織に懸想しておる者共が、そなたの周りをうろついておると聞いた」
「え?」
「気付かなかったか?」
「あ……サクラがそんなこと言ってたけど……ホントなの?」
「誓から報告を受けた」
「……」
ホント、なんだ。衣織を好きなコたちが、オレを、恨んでる?
塩紅くんが手首を切った日のことが、頭にぶわっと浮かんで来た。
「あ……」
朝から快晴の空の、澄み切った青色が目に入った途端、胃から何かがせりあがってくるような吐き気を催した。
「っく……」
「雨花、どう致した」
「あ……は、あ……」
体がカーッと熱くなって、心臓が一気にバクバクし始めた。
吐いてしまいそうで、立っていられない。
その場にへたり込みそうになったオレを、抱えるように皇が支えてくれた。
「どう致した?!」
「気持ち、悪……」
「しばらく我慢致せ」
皇は、シロに『急ぐぞ!』と言うと、オレをひょいっと抱き上げて、三の丸まで走った。
空の青色が目に入るたび、どうにもならない吐き気が込み上げてくる。
オレは皇の胸に顔を埋めて、何とか吐き気をおさめようと、何度も深呼吸を繰り返した。
三の丸には、まだ出勤していなかった母様がいた。
『早く診てやってください!』と、オレが心配になるくらい慌てている皇に、母様は『お前が騒ぐと青葉が心配するだろうが!まずはお前が落ち着け!』と、一喝した。
「……はい」
「大丈夫だから」
皇の腕をポンッと叩いて、母様は『大丈夫だよ』と、オレにニッコリ笑いかけた。
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