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正しい”お付き合い”のすゝめ⑯

そういえば、零号温室に来るのって、学祭の翌朝、皇と一緒にお風呂に入りに来た時以来だ。 あの日、もうここの鯉が大きくなるのを見ることはないかもしれないって、ものすごく凹んでいたんだっけ。 あの時はあんなに悲壮感を漂わせて、もう皇とここには来られないかもしれないと思っていたのに、今、当り前のように繋がれている手に気付いて、小さく鼻で笑ってしまった。 「何がおかしい?」 「ん?前にここに来た時のことを思い出したら、おかしくなって」 「あ?前にここに参ったのは、学祭の翌日ではないのか?」 「え?学祭の翌日だよ?」 皇は『あ?』と、顔をしかめた。 「何?」 「あの日、余が帰ったあと、そなたにとって笑えるようなことが起こったのか?」 「お前が帰ったあとに?ううん、全然」 しかめっ面をしている皇の手を離して、鯉を見ようと歩き出した。 「あ、いた!鯉、ちょっと大きくなったよね?」 この鯉の稚魚だって、オレが好きだろうからって理由で、皇がわざわざこの屋上に造った小さな川に放してくれたんだっけ。 皇の気持ちがわかった今だから、皇がオレを大事に思ってしてくれた行動を素直に喜べるようになったけど……。 だけどあの頃は、皇に大事にされているのはわかっていても、それはオレが一門として守るべき”嫁候補”だからだろう、なんて、歪んだ見方しか出来なかった。 オレは自分で、皇に選ばれないだろう理由を、必死に探していたように思う。 皇に好かれてるなんてうぬぼれてしまったら、皇の気持ちがオレにないってハッキリわかった時、立ち直れないだろうって、思ってたから。 オレに追いついた皇とまた手を繋いで、温室の真ん中にあるソファセットまで歩いた。 歩きながら、あの日、皇が帰ったあと、ここの鯉が成長する姿はもう見られないかもしれないなんて落ち込んでいたんだから、笑ってたわけないだろ!と、皇に笑いながらそう話した。 ギュッとオレの手を強く掴んだ皇は、ふぅっと大きく息を吐いて、ソファに座った。 「詠の申していた余のトラウマとは、その日のことだ」 「え?」 「学祭翌日、そなたをここに置き去りにしたことが原因だ」 置き去りって……。 あの時、皇が気にしないように、笑って見送ったつもりだったのに……。 「余がトラウマを抱えた日だというに、そなたにとっては笑える日だったのかと驚いたが……そうではなかったのだな」 「そりゃ、お前はふっきーに呼ばれて帰ったんだし、笑ってたわけないじゃん。あの時はあんなに落ち込んでたのに、今はお前と手を繋いでここにいるって思ったら、何かウケたんだよ」 オレは皇の隣に座って、二人分のお弁当を開いた。 「っていうか!オレを置き去りにしたっていうなら、されたオレのほうがトラウマ背負うもんだろ!何でお前がトラウマになってんだよ!」 「そなたは見た目が繊細な割に、中身は豪胆だな」 「ごうたん?」 『褒め言葉だ』と、笑いながら伸ばしてきた皇の手のひらに『絶対、嘘!』と、オレはビシッと箸を渡した。 学祭二日目、オレが倒れたと報告を受けた皇が、急いで学校に来るために、曲輪からヘリを飛ばしたって話はすでに聞いていたけど、学祭翌日には、そのことが大老様の耳に入ったという。 入院していた駒様を放って、学祭でちょっと倒れたオレのところにヘリまで飛ばして急いで向かったなんてことが他の家臣さんたちに知られたら、オレが奥方様決定だ!なんて騒がれて、無駄に狙われる可能性がある。そう考えた大老様は、ふっきーに、皇に連絡をして呼びつけるように命じたんだそうだ。ふっきーに呼ばれて急いで帰って来ましたっていうていで曲輪に戻れば、オレのためにヘリを飛ばしたってことが他の家臣さんたちにバレたとしても、オレだけ優遇してるとは言われなくなるだろうからって。 だから大老様の電話のあとに、すぐふっきーが皇に電話をかけてきたんだ。なんでふっきーが皇の連絡先を知ってるのかって、すごく落ち込んでいたけど、次の大老候補であるふっきーが皇の連絡先を知ってるのは、当然といえば当然だったんだ。 あんなに楽しい学祭あとの一夜を過ごした翌朝、オレを置き去りにして帰ったことに、皇はすごく罪悪感がわいたという。なのに、さらにあの日以降会うことがないまま、オレが階段から落ちて何日も昏睡状態に陥ってしまったため、皇はあの日、オレより先に帰ったことを、ものすごく後悔したと項垂れた。 「お前が先に帰ったから、オレが階段から落ちたわけじゃないじゃん」 「そんなことはわかっておる!」 皇はムッとしながら、箸を置いた。 「余は早う……そなたの中の、そなたを置き去りにした余の記憶を打ち消したかった。だのにそなたは、そなたの記憶を書き換える機会を余に与えぬまま、余のもとに戻ることを拒否しおって……余がどれだけ絶望したか。そなたを置き去りにしたまま、そなたを失うのかと……そなたが意識を戻さぬ、あの、先の見えぬ五日間は、永遠かと思うほど……長かった」 皇は唇を噛んで、オレの手をギュッと握った。 「この温室も、詠からの電話も、あの時のどうにもならぬ絶望感を蘇らせる」

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