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悪食のイシュタム【前編】

 食事は摂りたくないと思ったので、スーパーで大安売りしていた羊羹を大量に買い込んで、当面の食事に充てることにした。電気毛布でがんがんに温めた布団にくるまり、寝たまま腕だけを伸ばして袋を手繰り寄せると、紙の包装をほどいて褐色のそれを齧った。暦も五月に切り替わり幾日か過ぎ去った。春の陽射しもそろそろ熱射に差し掛かる頃合い、風が吹けばぴかぴか光りそうな街並みばかりが惜春に浮き足立ち、人々が長期休暇になだれ込むと、かかりつけの病院たちも同じく正門を堅く閉ざした。官能医師がどういった休暇を過ごすのか見当も付かないが、大方あの白亜の城に閉じこもってピンク色の樹脂を削っているのだろう。神はワーカーホリックなのだ。  陽光はあたたかく路地を温めているのに、カーテンを閉め切って、カビ臭い空気と一緒に湿った羊羹を齧る日々。ひとくち齧っては適当に転がして寝てしまうので、こころなしか枕元はねちねちと粘ついている。空になった包装紙も、飽き飽きしてきた羊羹も捨ててしまいたいのにめっぽう買い物に行く気になれず、自身の腹の機嫌もわからないので一日中湿った布団のなかで羊羹を齧っては飢えだけを徹底的に凌いでいた。  生きていける気がしない。喉が痛い。灼熱感がずっと、胃の弁を塞いでいるような気がする。  先週、春に密閉された花崎邸で秘密裏に行われた、淫蕩に咽頭をいじめる悪魔の儀式のせいで喉を痛めた。三十八度を超す高熱が連日続いている。幸い、喉に膿が沸いたわけではないので扁桃炎ではなさそうだ。はじめは喉をめちゃめちゃに突かれたせいで外傷を負ったのかと思って焦ったが、高熱が出てきたのでむしろ安心した。細菌やウイルスが原因であるのなら、おのれの脆弱な免疫力と抗体に頑張ってもらうより他ない。せいぜい発熱して体中を殺菌してくれ。とはいえ、扁桃腺の腫れがとにかくひどい。呼吸がくるしい。鼻息すら灼熱だ。唾すら嚥下できないが、どうしようもない。激痛を堪えながら呑むことしかできない。  羊羹を齧る。ひとくち。前歯で刮ぐようにして、ひとくち。水がほしい。甘い。あまい。くるくるする。ああ、この熱砂の酩酊感は、どうしても花崎邸でのやりとりを追想せざるを得ない。無粋な泌尿器科医は『いいなりの“ふり”をしてくれた』と言っていたけれど、あのとき、あの瞬間、あの週末は、たしかに灰桜色の煙に燻されながら、官能医師を忘却して痛苦に酔いしれ、自我を喪い、享楽の熱風に浮かされていた。ふり、だなんて人聞きの悪いことを……。  ぴこん。スマホの受信音だけで差出人を察する。  鮫島慶だ。  勝手に合鍵を作って所持しているくせに、いちいち玄関先で部屋に上がって良いかとメッセージで確認してくるのは、既成事実のためだ。部屋への侵入を許したのは栗花落の意志によるものだと明確にするための、彼なりの悪魔の儀式なのだ。まるで名前を呼ばれない限り家屋に侵入することができないヴァンパイアだ。吸い取るものは血液ではなくて精なのだから、インキュバスだ。インキュバスが、夢魔が、玄関の扉代わりの薄っぺらい木の板を、うつくしいげんこつの骨張った先で慎ましやかなノックをする。声は出せないし文字を打つ元気もないので、カメのゆるキャラがサムズアップをしているスタンプで応答した。招き入れる。悪魔が訪れる。 「潤くん、まぁた風邪引いたのぉ?」  こころなしか嬉しそうな声音で、両手に下げた袋をがさがさ鳴らして夢魔は侵入してきた。途端に、かび臭い部屋は甘い薫風で洗浄される。 「……けほ、」  ことばが出ない。軽い咳払いで非難を訴えた。最近は、栗花落にしては割と健康なほうであったのだ。 「赤ちゃん並みに熱を出すよね。なんで?」 「んん」 「もうこんな部屋、引っ越しちゃえば? おれと一緒に暮らせばよくない?」  会うたびに同居を誘われる。その度に律儀に断ってきたのだけれど、鮫島はめげない。むしろこの一連のやり取りを好んでいるふうにすら見受けられる。困惑して目を伏せる栗花落の気まずい表情を、いつだって嬉しそうに視線で嬲った。 「まあいいけどさ。潤くんって、ひとと一緒に生活できるようなタイプじゃないもんね。だらしなさすぎて、すぐ追い出されちゃうよ。俺は掃除とか他人の世話とか好きだから、潤くんみたいな同居人がいたらむしろやる気でてきちゃうけどね」  戯言に貸す耳は持ち合わせていない。そういえば官能医師も、いつぞやに血迷って同居を勧めてきた。いや、その話はやめておこう。こんなにも咽頭痛がひどいのに神を想い嘔吐でもすれば、本当に喉が裂けかねない。 「プリン買ってきたよ、ケーキ屋さんの。潤くんのすきな、ホイップの乗ってるやつ」  首を横に振る。 「うわ、なにそれ。羊羹? なに、それしか食べてないの?」  布団の甲羅に篭る栗花落の正面に回り込んで、鮫島はあからさまに眉を顰める。ヘーゼルの虹彩の中心で闇をたたえた瞳孔が、ぼろ布めいたカーテンの隙間から差し込む場違いな斜光にきゅうと狭まるのが見てとれた。こんな廃墟然としたボロアパートへと来訪するためだけにきちんとヘアセットをして、おしゃれをして鮫島はやってくる。きっと百ミリリットル数千円の、高価なヘアオイルだのワックスだのを使用しているのだ。とてもそのコストに見合う部屋でもなければもてなしもできないのに、ご苦労なことだといつも思ってしまう。ミルクティーベージュの色素を注入した髪をアイロンで流して毛束を整えているときの鮫島は、きっと、真に純然たる〝鮫島慶”そのものなのだと想像する。栗花落への異様な執着心や妬心をすべて忘れた次元の、真の鮫島。ヘアアイロンを百八十度にセットして、チタンプレートが温まるまでのわずかな時間をうつろな瞳で過ごす鮫島。鏡のまえでぼんやりと、下瞼の隈や、睫毛に付いてしまった寝癖を確認する鮫島。そういった純然たる本物の鮫島圭を想像すると、栗花落はわずかにうれしくなってしまう。ちゃんとした〟人間”なんだとおもえば、普段の明け透けな彼の性欲すら愛おしくなってしまう。 「なんで一口だけ食べて放置しちゃうの。せめて、食べきってから次のやつを開けなさいよ」  もう、と苦言を訂す声音が甘ったるい。鮫島の足音が近付くにつれて、甘いココナッツの香水が呼応して強く香った。甘味にはうんざりだと思っていたばかりなのに、その匂いは、妙に落ち着く。嗅ぎ慣れているからだろうか。 「お熱あんの?」  なまぬるくて大きなてのひらが、汗ばむ額にぴったりとくっつく。わずかに上を向いて、従順に体温を明け渡す。 「あっついね。市販薬で効くかわかんないよ。もう、ゴールデンウィークだから病院も開いてないし、これ以上熱が上がるようなら本当に救急外来に行くか、救急車呼ばないと」 「おがね、ない」  がらがらの声で抵抗すると、顎下を撫でられた。 「それくらい出すってば。なんなら衣食住ぜんぶ面倒みてあげるのに」 「……」  首を振る。楽なほうに流されたい質ではあるけれど、金銭面に関しては家族以外の他人の干渉を受けたくなかった。いまやバイトすらほとんどせず、仕送りだけを切り詰めて生きているダメ人間なのでこういった有様になっているが、もとより崖っぷちの生活が好きなのだ。生きていると、そう実感できる。 「……とりあえずなにか食べなきゃ。お粥さん炊いたげる。たまごが入ってるやつでいいでしょ?」  頷く。鮫島は粥のことを、『おかいさん』と発音する。育ってきた環境の温雅さを感じられて好ましかった。母親の影響だろうか。おかいさん、というかわいらしい単語が柔和に降る食卓で育ってきたはずの鮫島少年がいまや……。おのれの与えてしまった悪影響を考えると、自身こそがインキュバスそのものであり、淘汰されるべき卑しき悪魔でしかありえない。 「喉が痛いなら、お塩は控えめにしなきゃね。潤くんは塩辛いのが好きだろうけど、いまは我慢してな」 「ウ」  正直にいえば食べられる気は全くしなかったけれど、残したら残したで、きっと彼が平げてくれる。いつもそうだった。悪食な上に消費期限に頓着はしない性格なので、慢性的に胃がおかしい。外食などをしても大抵一食分を食べきれないのだけれど、残したそれらを鮫島はいつだってなにも言わずに食べてくれた。出会ったばかりのころ、鮫島は定食のごはんを特盛りで注文していたのに、栗花落の少食を知ってからは普通盛りでオーダーして、はなから栗花落の食べ残しを片付ける気でいてくれた。箸を動かす手が緩慢になりやがて停止すると、鮫島は「ん」と言って手を差し伸べ、栗花落の皿を受け取る。その仕草や栗花落の胃の容量を考慮した心持ちが、ひそかに好きだった。 「おかいさん出来上がるまでけっこう時間かかるから。それまでこれ、飲んでな」  総合栄養食のゼリーパウチを渡されたので受け取り、横になってこんこん咳き込みながらそれを額に押し当てた。 「こら。ぬるくなっちゃうって。冷却シート貼ったげるから、それは飲んじゃって」  ん、と喉で返事。甘やかされている。ああ、きもちがいい……。  丸まって、ゆっくりとゼリーを飲む。母親の親指を吸う赤子の気分で、パウチの中身をすこしずつ吸う。冷たくて、喉を通る瞬間は驚くほどの激痛を伴うのに、あんがいすんなり飲むことができた。野菜味なんて普段は口にしないのに、久々に羊羹以外のなにかを胃に収められることがうれしくて、夢中でちゅうちゅうと吸っていた。吸引の合間に、鮫島が長い前髪を指で除けて、解熱用の冷却シートを額に貼ってくれた。甘やかしてくれている。おかあさんみたいだ。そういえば里帰りもまともにしていない。母親は郷里でコーラス倶楽部や社交ダンスなどで意欲的に遊んで暮らしているらしいので心配はしていないが、たまには連絡を取ってみるのもいいかもしれない。  珍しくまともなことを考えているうちに、うとうとと眠ってしまっていたようだ。眠っていたというのは良い言い方で、おそらくは、……正確には失神していた。両手にはゼリーのパウチを持ったままで、肩を揺すられてはっと目覚めた。全身、汗みずくだ。 「寝かせてあげてても良かったんだけど、ちゃんと栄養摂ってからもう一回寝かせたほうがいいかなって思って」  やさしい瞳が逡巡を窺わせる。言い訳がましい口調に、栗花落の支配欲が心地よく満たされる。身体を起こすと、布団周りがきれいに片付けられていることに気が付いた。眠っているあいだに掃除をしてくれたのだろう。 「……り、がとう」  喉を引き絞って礼を述べると、鮫島は振り返って瞳を細めた。「ぜんぜん」と応える声音は、熱でぐずぐずに溶け崩れた甘味よりもずっと甘ったるい。陽春に溶け込む声音の余韻から、彼の支配欲もまた、同じように満たされているのだということを悟った。 「できたよ。ほら、俺に寄りかかっていいから」  布団からずるんと引きずり出されて、背後から抱えられるようにして鮫島の胸に背を預けた。ああ、やさしさに融ける……。 「まだ熱いよ。ちゃんと冷ましてあげるから、もうちょい待ってて」  相変わらず咽頭痛がひどい。食える気がしない、と首を振って呻いたが、無視された。こんなに熱があるんだぞ、食事なんて無理だ、はなから食う気などなかったんだぞ、おまえが世話したがっているから調理を許可しただけで、食うとはひとことも言っていないぞ。そういった自分勝手なわがままを込めて、いまにも発火しはじめそうな額を鮫島の首筋に擦り付けると、鈴を転がす笑い声がつむじに降ってきた。冷却シートはとっくに枕に擦れて剥がれ落ち、枕元で羊羹の代わりにねちねちとのたくっていた。  いつもは悪魔の所業を繰り出す指が、今日は珍しくやさしく、くるしい熱を吸い取ろうと額を撫でてくれる。 「そろそろ大丈夫そうかな」  なにが、と顔を上げて、レンゲに掬われた少量の卵粥の存在をようやく思い出した。てろてろと輝いて、卵が黄色くて、つやつやしている。ファンの女性たちが触れたい触れたいと夢想しているであろう、口角の上がった悪戯げな唇がふうふうと慎ましい息を粥に吹きかける。湿っぽくて塩っぽい湯気が流動して、熱が拡散していくのを呆けて見上げていた。 「ちゃんと食べようね」  熱心な視線に気がついたのか、鮫島はとろける笑顔を向けてくる。へらり、それに笑って応える。なんだか、食べられそうな気がしてきた。  レンゲが恭しく掲げられる。給餌を待つ怠惰な唇に運ばれる。……と思ったけれど、意地悪に緩慢な速度でレンゲは遠ざかり、手入れの行き届いた、しっとりした鮫島の唇に吸い込まれていく。  あれ?  はく、というちいさな音。歯に当たる、陶器のレンゲが奏るかちりとした音。咀嚼。  あれ?  食べさせてくれるものだと思って、そのひとすくいの粥を待ち呆けてだらしなく口を開けていた栗花落は一体……。  きょとんと開口したまま肩透かしを喰らう間抜けな栗花落に、代わり映えのしない砂糖菓子めいた笑みが降る。へらり、もう一度おなじように間の抜けた笑みを返す。顔が近付いていくる。蠱惑的な、とろける笑み。好きだよ愛してるよと、笑みだけで胸焼けがするほどに伝達される。しかしその喉は一度も鳴ってない。粥を口に含んでから喉仏は一度たりとも上下していない嚥下されていない。  あれ? 「え、ンぅ……!?」  無慈悲に合わせられた唇から、なまあたたかい、これは……。  驚いた。驚いた。びっくりした。鮫島が丁寧に丁寧に咀嚼した糊状の粥がわずかに、とろりと流れ込んでくる。舌の上で伸ばして遊べるほどの少量ではあるが、それでも、……びっくりした。口内に押し込まれたなまあたたかいそれを舌に乗せたまま、きょろきょろと眼球を右往左往させる。泳ぐ。瞬く。これは……、飲むのか? 飲み込むのか? 飲んでもいいのか? 「食べてね」  まるい塩味を味蕾で検分し続ける栗花落の頬を、心底愛おしげに、おおきな手のひらが撫でまわす。その皮膚がしっとりとした湿り気を帯びているのは、鮫島が多分に興奮しているからだろう。栗花落以上に熱っぽい視線が、栗花落のかぼそい喉仏が動くさまを見守る。いまかいまかと待ち侘びている。  ごくん。  激痛。あまりの激痛に涙が一気に浮かんだ。 「泣いちゃうほどおいしい?」  縦とも横とも受け取れる、あいまいな角度で頷く。どう解釈したのか、鮫島はほっと肩を撫で下ろした。ポジティブな方面に捉えたようだ。もちろん予想はしていたけれど。 「おいしいね」  にこにこと絶え間ない笑みに否定をもたらすことなんて、栗花落にはできなかった。口移しで食事を与えられることに対しては思ったよりも抵抗感がなく、花崎医師に破壊されかけ、いまだ軋む顎を動かす手間が省けるのでむしろ僥倖だ。毎食こうして給餌されるのも悪くないかもしれない。元より咀嚼の必要がないほど丹念に煮込まれた粥なので、鮫島からしてみれば、単純に自身の唾液を食事に織り交ぜて与えたいだけなのだろう。けれど、そんな無粋な思考は早々に放棄した。事実、栗花落はうれしい。抱き寄せられて、怠惰な栗花落の代わりに咀嚼をして、なめらかに濾された粥を雛鳥がごとく与えられている。あー、と間抜けにくちを開ければ悦んで顔を寄せてくれる。嚥下すればえらいねすごいねと褒めてくれる。それでいい。それでいいんだ。しあわせだ。

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