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現状維持でいい-1
〈時任 奏史〉
あれから、特に何の問題もなく日々が過ぎている。
この間、経理のみんなでランチに行こうと誠を誘ったけれど、理由をつけて帰られた。
五十嵐も言っていたように、おそらく誠は僕とランチには行きたくなかったのだろう。
無理に誘ってしまって申し訳ないことをした。
きっと、今は彼に関わらない方がいい。
業務では、誠の上司だから関わり合いになるなという方が無理だが、極力話しかけないようにして。
それが現状では一番良い接し方で、誰も不幸にならないのならそれでいい。
経理部での業務が終わって一息ついていたら、携帯に着信が入った。
誰からだろうと、液晶画面を確認すると『義仁 さん』の表示。
少し溜めて、3コールめで電話に出た。
「はい」
『奏史? 今仕事終わったのか?』
「そうですね……今帰るところです」
僕の返答に義仁さんは、そうかとだけ答えた。
少しの間が空いて、それから要件が告げられる。
『食事にでも行かないか? 二人きりで』
義仁さんから、こうした誘いを受けるのは初めてだった。
今日は特に用事もないし、一人で悩んで抱え込むのも疲れた。
相談相手、ということでもないが、気晴らしくらいにはなりそうだ。
「いいですよ」
『車で迎えに行く。どこで待ち合わせする?』
「僕の会社まで来てもらってもいいですか?」
『わかった』
僕の返答に、義仁さんは嬉しそうに声を弾ませていた。
そんな態度を取られると、僕も多少は嬉しくなる。
10分くらいで着くからと告げられ、そこで通話が途切れた。
今日も残業はいれていたのだけど、義仁さんからの連絡なんて滅多にないから、ついOKしてしまった。
残業ならば明日もできるし、今日くらいこんな日があっても良いはずだ。
パソコンの電源を落として帰り支度をしていると、まだ帰っていなかったのか。
誠が物珍しそうに僕を見つめていた。
経理の他の二人は先に帰ってしまって、いまオフィスにいるのは僕と誠だけだ。
何か言いたげな様子に、気付かないフリをして鞄を手に取って、さよならの声かけをする。
「大瀬戸、僕はもう帰るから最後の戸締り頼むよ」
「はい…、主任、帰るの早いですね」
「予定が出来てね。また明日」
そのまま、顔も見ないでオフィスを出た。
10分後、会社の入り口で待っていた僕の前に、義仁さんの車が停まった。
窓を開けて顔を見せた義仁さんは、乗ってくれと催促する。
それに従って助手席に乗り込むと、シートベルトをして車が動き出した。
「今日の義仁さん、気合い入ってますね」
「奏史とプライベートで二人きりなんてそうそうないからな。気合いも入る」
前髪を上げて、ワックスで固めたのだろう。
普段見ないよそ行きの格好に、珍しさに見惚れていると急に義仁さんが項垂れた。
「あー、やっぱダメだわ」
「どうしたんですか?」
「メシ、後でいいか?」
「……それって」
どういうことですか、と聞く前に義仁さんの片手が、僕の手を取って握りしめる。
指を絡められて、そこでやっと意味が分かった。
二人きりで食事をしよう、というのは建前だ。
たぶん、その建前ですらも面倒だとか、この人は思ってそう。
義仁さんの提案に多少は驚いたが、昔一度あったから動揺はしなかった。
予測できたらこうして誘いに乗らなかったのか、と聞かれればYESとは答えられない。
きっと、オブラートに包まないで、抱かせてくれと言われても、僕は断らなかっただろう。
「いいですよ。ホテル、行きましょうか」
「いいのか?」
「最初からそれが目的ですよね? だったら、何も問題ないじゃないですか」
笑って告げると、まあそうだな、と義仁さんは答えた。
義仁さんに抱かれたのは昔、一度だけ。
僕が18の頃だった。
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