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誰も知らない貴方の顔-1
〈新島 大輔〉
最近の俺は絶好調だ。
仕事でも、プライベートでも悩みなんて一つもないし、日々快適に過ごしている。
それもこれも全部、江川さんのおかげだ。
「――おはよう」
いつもより少し遅く出勤すると、江川さんが先にオフィスにいた。
それに驚いて時計を見ると、いつも来る時間よりも10分の遅刻だった。
大体、この時間になると江川さんも来ているから、今日は単純に俺が遅いだけだ。
先ほどの独白を訂正しなければいけない。
絶好調なのは本当だけど、浮かれすぎているのも否めない。
そのおかげで、今朝は母さんが作ってくれた弁当を家に忘れて、昼飯を買ってきていたから遅れたんだ。
「珍しいな、お前が遅れるのなんて」
「忘れ物をしてしまって、それで時間をとられていたら遅れてしまったんです。すいません」
しょんぼりしていると肩を叩かれる。
そんな落ち込むことじゃないだろ、って笑ってくれるものだから、それもそうだと気持ちを入れ替える。
きっと、今日の俺も絶好調のはずだから。
「新島」
「はい」
「お前の日課、俺がやっておいたから」
後でコーヒー奢れよ、なんて軽口を叩いて江川さんはホウキを仕舞う。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、江川さんは頷いた。
とりあえず、自分の荷物をデスクに置いて始業の準備をする。
パソコンに電源を入れて、それからロールカーテンを開けて日差しを入れる。
窓際に近づいて、そこでふと気がついた。
「時任主任、まだ来てないんですか?」
「時任なら今日は経理の方だって言ってたな」
そういえば昨日、そんなことを言っていたか。
いつもなら俺の次に早く来てデスクに座っているものだから、見慣れない光景に驚いた。
度々、江川さんが愚痴るものだから俺も痛感しているのだが、この会社、慢性的な人員不足だ。
猫の手も借りたいくらいで、だからこうして時任主任も引っ張りだこなのだけど、毎度大変だなあと心配している。
それだと今日は俺と江川さん、それと三嶋さんの三人で乗り切らないといけないのか。
多少、憂鬱になりながらも弱音はご法度だ。
自分を叱咤するように頬を叩いて気合いを入れる。
その直後、
バンッ! と大きな音がオフィスに響いた。
見ると、オフィスの扉を開けて時任主任が入ってきたところだった。
けれど、いつもと様子が少しおかしい。
しっかりと着こなしているスーツがよれて、シワになっている。
顔も、まだ始業もしていないのに疲れ切っているようで、なんとも珍しい様子に思わず江川さんと顔を見合わせた。
「どしたの?」
「ああ、江川か。おはよう」
そう言って、時任主任はいつもの笑みを作った。
けれど、それもすぐ消えて口からは溜息が漏れ出てくる。
「まいったなあ、ほんと。どうしよう」
よろよろと自分のデスクまで歩いて行って、消沈した様子で椅子に座る。
俺もだが、付き合いの長い江川さんも、これには目を丸くしていた。
「時任主任、どうしたんですか?」
「わかんねえよ、なんだあれ?」
コソコソと耳打ちして、なんだどうしたと話し合う。
けれど、そうしたところで答えなんて出てくるはずもなく、完全に目の前の事態に消化不良だ。
どうすればいいかわからずに、遠目に様子を伺っていると、そこに三嶋さんが出勤してきた。
「おはよう。あー今日もしんどいわ」
相変わらずのやる気のなさに、こちらはいつも通りのようで安心する。
三嶋さんは、出勤してきて数時間はこんな調子だ。
温まってこないと何もやる気しないと、口癖のように言っている。
朝はダルいし、ずっと寝ていたいから気持ちは分かるが、それを紅一点のこの人がやるのだからなんだか可笑しい。
「え、なに? どうしたの?」
お通夜のようなオフィスの状態に気づいたのか。
三嶋さんがキョロキョロと辺りを見回す。
俺と江川さんに目線を送って瞠目するあたり、三嶋さんもこの状況は初めてらしい。
江川さんが無音で時任主任を指差して、なにやらジェスチャーしている。
別に声を上げるな、という訳ではないのだけど、今の状況に困惑しすぎて誰もそのことには突っ込まなかった。
江川さんの説明を三嶋さんは理解したようで、ツカツカと時任主任の方に寄っていく。
「時任君、どうしたのよ」
「おはよう。いや、別に大したことじゃないんだけどね」
「んー? あやしい……あっ、」
何かに気づいたように、三嶋さんは声を上げた。
なるほどねえ、と一息置くと時任主任の肩に手を置いてにこやかに笑みを作った。
「気にしないで。ここにはウブと鈍感しかいないから」
「それ、フォローになってる?」
「ねえ、それどこで付けてきた?」
「三嶋も五十嵐さんと同じこと聞かないでよ」
何のことを話しているのか、俺には理解できなかった。
それでも、時任主任があんなにも落ち込むことだ。
それなりの事だろうし、余計な詮索はされたくないだろう。
気になるけど、時任主任の為を想ってもう気にしないようにした。
黙ってデスクに着いて、仕事を始める。
朝イチで提出しないといけない書類があったんだった。
黙々と自分の作業に没頭していると、またオフィスのドアが開いた。
「失礼します」
姿を見せたのは、総務ではあまり目にしない人だった。
確か、俺と同期で入った大瀬戸さんか。
同期だけど、彼は俺よりも二つ歳上だからどう呼んだらいいかわからない。
それ以前に接点もあまりないから、たぶんいうほど気にしなくても良さそうだ。
入ってきた彼に、一番近場にいた江川さんが対応する。
「どうした?」
「主任いますか?」
「いるよ、呼ぼうか?」
「はい。お願いします」
やり取りを小耳に挟みながら、キーボードを叩く。
視界の外では時任主任が呼ばれて、三嶋さんからやっと解放されたみたいだ。
それからなんやかんやあって、時任主任は大瀬戸さんに引きずられてオフィスから出て行ってしまった。
先ほどからの怒涛の展開に、まったく頭が追いつかない。
ぽかんとしている俺の正面のデスクに、江川さんが着いたことでやっと正気に戻った。
「江川さん」
「うん?」
「さっきのあれ、何なんですか?」
「俺に聞かれてもなあ」
投げやりに呟いて、江川さんはパソコンに向き直った。
今日は本当に、朝から慌ただしい日だ。
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