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第5話
数週間が何事もなく過ぎ、ついに明日から塾が開くことになった。開校時間を短縮しての再開だ。
映画鑑賞以外にろくな趣味もない亘は、休業期間のほとんどを授業準備と部屋の掃除に費やした。
長い春休みの間に、生徒が真面目に勉強していたとは考えにくい。これから塾がフォローアップしていかなくてはならないのだ。
業務についての悩みはある。しかしそれ以上に、画面越しではない祭の顔を見られるのが楽しみだった。公私混同も甚だしいが、それが仕事に良い動機付けになるなら悪くないはず。
あれから何度か祭と2人でリモート飲み会をした。2人だけの酒席が「飲み会」に当てはまるのかは疑問だが、祭がそう言うので亘も合わせている。
雑談が下手な亘だが、祭との会話は時間を感じないほどに楽しかった。
生き生きと話をしてくれる祭は、悩みなど無いように見えた。やはり祭が弱音を漏らすことはない。あの日のことは亘の思い過ごしだったのだろう。
再開初日は、事務室も講師陣もてんやわんやだった。なにしろ学校の進度や今後の方針に合わせて、塾側が考えるべきことが山ほどある。休み続きで浮き足立っている子供の相手をするのも大変だ。久しぶりに浴びた子供のエネルギーに圧倒されてしまった。
なんとか無事にすべての授業を終え、片付けをしていた亘に声がかかる。
「お疲れ様です。眞島先生」
「ああ、お疲れ様」
若い英語講師、武下が事務室から両手にペットボトルお茶を持って現れた。
「これ差し入れです。保護者の方から」
「それはありがたい。いただきます」
年度末に受験生の保護者の方が菓子折を持ってくることはあるが、お茶の差し入れは珍しい。授業で乾いた体には、ありがたかった。
亘はその場で蓋を開けラッパ飲みする。一気に半分ほど飲み干すと、隣で武下が驚いた顔をしていた。
「なんか意外です。豪快ですね」
「そう? 確かにちょっと品がなかったかな」
「いえ、いいと思いますよ。眞島先生って体格もいいですし、何かスポーツとかされてたんですか?」
「学生時代にラグビーを少し」
「えー! かっこいいですね!」
「昔の話だから。今は全然」
教室の浮ついた空気のせいか、つい饒舌になる。他の講師とこんな他愛ない会話はしたのは初めてかもしれない。祭と話すことで、自分の中の雑談に対するハードルが下がったのだろう。
今なら武下が祭にアピールをしていても許せるだろうか。
想像したが、やはりそれは許せない。しかしその理由は公私混同ではなく、何か別の、もやもやとした感情のためだ。
事務所の中から、祭がひょこっと顔を出す。
「眞島先生」
「ま……鈴谷さん」
反射的に名前を呼びそうになって言い直す。数週間前はこれが普通だったのに、祭に苗字を呼ばれるのも、逆に自分が呼ぶのも妙な感じがした。
「じゃあ私帰りますね。祭さんも、お疲れ様です」
武下は爽やかな笑顔で去っていった。入れ替わりに祭が事務室から出てくる。
「お邪魔しちゃいました?」
気まずそうに祭が言う。
「まさか」
武下に対してそういう感情は全くない。
他の誰かに言われても一笑に付すが、祭にはつい熱を込めて否定してしまった。
「ただの世間話ですよ」
「そうですよね。すみません」
祭はどこか元気がない様子だった。休業前に言っていた祭の言葉が、亘の頭をよぎる。やはり、仕事に疲れているのだろうか。
業務の時間は終わっている。亘は思いきって話を切り出した。
「あの、祭さん」
「え?」
祭が目を丸くする。頭の中がプライベートモードになっていてつい間違えてしまった。自分らしくないミスを、慌てて訂正する。
「ああ、いや。すみません、鈴谷さん。あの、何か悩みとか、あったりしませんか?」
「はい?」
やってしまった、と亘は脳内で頭を抱えた。
これでは怪しい占い師か宗教勧誘だ。口下手を言い訳にして誰かと深い会話をしてこなかったことを後悔する。
「いや、そうじゃなくて。なんか今日、元気がないように思えて」
「そうですか? 普通ですよ」
「そうですよね……」
駄目だ。亘には悩み相談の聞き役は荷が重い。
自分にできることはない。そう諦めて別れの挨拶に切り替えようとしたとき、祭がおずおずと口を開いた。
「あ、でも俺、亘さんに聞いてほしいことならあります」
「本当ですか!」
がしっと祭の両肩を掴む。我ながら引くほどの勢いで食い付いてしまった。祭も驚いて目を瞬かせている。しかし亘はなりふり構わず話を続けた。
「いつでも、なんでも聞きます」
じっと祭の目を見て言う。側から見たら不審者だろうということは、完全に頭から抜けている。
祭は2、3度まばたきをし、ぽっと頬を赤らめた。明らかに困惑している。
ここでやっと、亘は自分がおかしなことをしていると気づいた。ぱっと肩から手を離し、少し距離を取る。
「えっと、その……」
「……すみません。取り乱して」
居た堪れない思いで、ずれてもいないのに眼鏡のつるを触る。
「いえ。心配してくださったんですよね。嬉しいです」
祭は寛大にも亘の奇行を見過ごしてくれた。安堵してほっと胸を撫でおろす。
「でも、職場だと……」
「わかります。言いづらいですよね」
祭は愛らしく頬を染めたまま、こくりと頷いた。悩んでいるというよりは、恥らっているような様子だ。どういう話題なのか、亘には想像もつかない。
「俺の家、とかはどうですか」
不躾かと思ったが、他に相談事にふさわしい場所が浮かばない。予想通り、祭は当惑している。
そこでふと、以前にした約束を思い出す。
「え、眞島先生の?」
「はい。鈴谷さんがよければ。ついでに約束の映画も観ましょう。気分転換に」
少し考えたあとに、祭は頷いた。
祭の色よい返事に、自分でも意外なほどに心が弾んだ。
話し合って、日取りは今週の土曜日に決まった。亘は柄にもなく浮かれて、その日が楽しみで仕方なくなった。
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