25 / 442

閑話 的を射る

 日中は賑やかな学園も、朝方は静かだ。  東の天空がぼんやりと白みはじめてしばらく。学園の東側に位置する秘密基地のような人口の森に、破裂音にも似た高く鋭い音が残響となりこだましていた。  静謐とした、いっそ神聖さすら感じられる新緑の森の奥まったところに、その建物はある。南北に長く伸びる白い外壁はざっと100メートル続き、北側の一辺には立派な瓦屋根。弓道場だ。  床板に紫檀が使われた広い的場の中央には、身の丈ほどの弓を構える生徒が一人。数十メートル先の的一点を静かに見据え、ゆっくりと弓が持ち上がる。弦にかけた右手、弓を構える左手、力加減を均等に保ちながら引分け、矢を放つ。高いところで結われた艶やかな黒髪が、サラリと波打った。  的を撃ち抜く音をきき届けて、静かに構えをとく。意識的に肩の力を抜いた。 (……外してしまいましたか)  的の中心からいくらか逸れた二つ目の白円に、己が射抜いた矢の先端が突き刺さっている。  ふう、と深く息を吐いた。人気のない静かな早朝ですら集中力を持続できていない。ここ連日の多忙故か、それとも。 (少なからず、わたくしも例の騒動で動揺しているのかもしれませんね……)  弓を一旦置き、右手から弓かけを外した。髪紐をとくと、男にしては長い黒髪がまっすぐ背中に沿い、森を抜ける風に靡く。  隅に並べた鞄のもとへすり足で近づき、片膝をついた。鞄のポケットに収納していた携帯電話のランプが、メッセージの受信を知らせるためにとチカチカ点滅を繰り返している。  この短期間でもう何件届いたかもわからない"臨時報告メール"。 (今日も慌ただしくなりそうです)  ───この学園に例の転入生がやってきて、今日で三日。学園全土には今、動揺の波紋が拡がりつつある。  『謎の転入生、現る』。『すべての始まりは食堂から』。『緊急特集・密着24時』。『転入生と生徒会組織の隠された癒着(つながり)』。…………などと、どれもこれも似かよった小見出しを、学生新聞や学生専用ネット掲示板でいくつも見かけた。たった三日間で、例の転入生は悪い意味で学園生の話題をさらってしまったらしい。  『わずか一日足らずで生徒会のほとんどを虜にした転入生』。生徒の感心を集めるためにと、記事を書く側も必死だ。転入生とのことは勿論、生徒会役員の交友関係やこれまでの色恋沙汰の傾向についてまで深堀りされ、何故転入生に彼らが興味を持ったのか、心理学的な分析まで行われている。 (まさかこれらのゴシップ記事の中に、このような内容で支倉様のお名前を拝見することになろうとは)  ふと考える。ここしばらくあまり会えていなかった後輩の存在を。  生徒会の副会長として、身の振る舞い方には少々神経質なほどに用心深い彼が、外野のこの反応を想定していなかったとも思いがたい。  しかしこれらの記事の内容がすべて真実で、あの後輩が本当に転入生──同性に対して好意を向けているのであれば、それはそれで悪い変化ではないと思う。  ひとがひとを好きになるための大義名分など必要なく、ひとがひとを好きになる感情は誰にも否定できない尊いものなのだから。 (……今後事態がどう動こうと、わたくし"は"、成り行きを見守る以外に出来ることもございませんが……)  ───『これからしばらくは、荒れる』。  転入生が学園に来たその日にすでにこの現状を予期していた旧知の友人兼自身の上司の顔が頭を過った。  生徒が荒れたところで、彼はきっと動じない。誰かが誰かに好意を寄せたところで、彼は大して気にも止めない。基本的に。  しかし何事にもイレギュラーというものが存在する。そして、彼のことだ、その稀少なイレギュラーを即刻潰しにかかるに決まっている。 (あのひとが、この件に関して支倉様に口出しせずにいられるかどうか……)  東の空から光が差し込み、目を細める。連なる木々の天辺から顔を出した朝陽。  こうして今日もまた、一日がはじまる。  

ともだちにシェアしよう!