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閑話 本の虫

(はあ……だめだ、集中できないや……)  かたい紙をめくる乾いた音がそこかしこから聴こえるその場所は、大英図書館をモデルにしたとされる第一図書館だ。  昼休みといえどそこは静寂が保たれており、話し声や足音も暗黙のルールとして極力抑えられている。  ランタン型の照明と艶塗り美しい本棚が整然と並ぶ一階のとある通路に、その生徒はいた。  ふんわりとした癖のある黒髪と、垂れ眉に垂れ目といった庇護欲を擽る可愛らしい顔立ちは、ここが男子校でなけれはボーイッシュな女の子と言われても疑う余地もないほど容姿も仕草も少女めいている。  キャスターが付いたブックトラックに積まれた書籍を元の場所に戻し、そしてのろのろと移動しては目的地で足を止める。そんな作業を黙々と。首には図書委員証入りのネームホルダーが下げられており、一目で図書委員会の当番業務の真っ最中であることが伺い知れた。  ただし心は此処にあらずだ。何故なら。 (どうしよう……。とんっ…………っっっでもない決定的場面を見てしまった……)  ───その生徒が思いを馳せるのは、つい数日前の放課後の出来事。  あれは、最近転入してきたばかりのクラスメイト・佐久間ルイがクラスになかなか帰って来ないからと、担任に使いっ走りに向かわされたときのことだ。あの時は正直、気が進まなかった。「王道主人公」は観察対象として非常に魅力的ではあるけれど、彼の友人枠という名のおもり役は振り回されることばかりで、疲れることが多い。探しても見つけられない焦燥と苛立ちで飽和状態になっていたそのとき、見てしまったのだ。 (会長様と副会長様が、手を繋いで、保健室に入っていった……。それってつまり、そう……いうこと、なんだよね……?)  憶測は止まらない。授業中は勿論、夢にまで出てきて、ついには敷地内の大型スーパー内にあるBLメイトショップで会長×副会長───通称【闇光(やみひか)】のCP本にまで手を出してしまった。完全に沼だった。  腐男子歴は約三年。マイナーCPばかりにハマってきたこの自分が、まさか学園屈指のメジャーCPの沼地へと足を踏み入れることになろうとは。マイナークラスタだった頃では考えられないほどの供給過多で、授業も仕事も手につかない。旬ジャンル怖い。 (でも、副会長様はルイくんを気に入ってるらしいし、会長様だって食堂でルイくんにキスしてた……なのに身体の関係はあって……それは、ええと、つまり、) (浮気症×浮気症……いやいや、副会長様は潔癖って噂だし……) (お互いにお互いの気持ちを試してる……とか?) (なにそれ不毛。むりとつら。泣きそう)  考察厨ゆえに、思考は止まらない。目撃した直後はテンションの高さゆえに事後だ事後だとひたすら歓喜していたけれど、今の状況と照らし合わせて深読みしたら思いの外シリアスな場面だ。感情移入が激しいタイプだと自分でも自覚しているので、想像だけで胸が苦しくなってくる。  自分より先にこの沼に浸かっていたひとたちは、この苦しさとどう闘っているのだろう。勝手な妄想とはいえ、自分たちが応援してきた二人のあいだに、急に台風の目のような第三者が割り込んできたら。  自分で考えておきながら耐えきれず、積まれた本の上に突っ伏した。その時だった。 「あっっコマーーー!!! ちょうどよかったっ、匿ってくれ!!」 「えっえっえっなにえっ??」  平穏な陽だまりの館内の空気を切り裂く喚声。"コマ"、と自分を渾名で呼ぶ知人に思い当たるのは一人だけ。  こちらに駆け寄る足音。黒いモサモサ頭と古めかしい眼鏡。周囲の迷惑そうな空気もどこ吹く風、声も走力も落とさず自分の元にやってきたのは、ここ最近学園の話題を悪い意味でさらっている転入生・佐久間ルイである。 「ルイく……、匿うって、どうし……」 「しー!」  絶対僕より君の方が声大きいよね、と内心思いつつも口には出さず、本棚と連結した勉強デスクの下に潜り込んだ佐久間ルイの不審な動向をただ突っ立ったまま見守った。わけがわからない。  佐久間ルイが完全に隠れきってしばらくしてから現れたのは、肩で風を切るように堂々と闊歩する大男一人。見上げるほどの身長差と厚い体躯、さらには臙脂色の髪とオールバックといった厳めしい風体に、心臓が縮み上がる。  ───体育委員長だ。め、めめ、目を合わせちゃだめだ……。 「なあ、そこの!」 「はっはひ……!? ぼっ、ぼくですか!?」 「ああ、お前だ。このあたりで佐久間を見なかったか?」 「えっ……とぉ…」  目を合わせないと誓った傍から、話しかけられてしまった。出来ることならこのデスクの下に隠れた佐久間ルイを、直ちに差し出したい。しかしそうしたらしたで、佐久間ルイの意向に沿わなかったツケが回ってくる。それも回避したい。感情につられて視線も右往左往する。  葛藤の末、「知りません……」と消え入りそうな声で答えた。体育委員長は一度顔を顰めると、「仕事の邪魔をしたな」と一言残し、あっさりと踵を返す。体育委員長が完全に立ち去り、デスクの下からのそのそ出てきた佐久間ルイは、また懲りずに大声で礼を言うと軽やかな足取りで図書館を後にした。  静寂のあとに残されるのはヒソヒソとした囁き声。まさに台風の目。  王道転入生が、また新たなフラグを建築した。それだけは理解した。  わがままプリンス気質な図書委員長に片付けを任された「日本妖怪シリーズ」の表紙にこてりとおでこを預けて、寝不足で疲れた目をぎゅっとかたく瞑る。  だめだ、やはり今夜も眠れそうにない。

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