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 冷静さをアピールするためにわざとらしく深呼吸を二度ほど繰り返した。しかし先ほどよりさらに声を潜めさせて志紀本先輩がぐっと身を寄せてきたので、せっかく取り戻した平常心もすぐに尻尾を巻いて逃げていく。  密事を囁くような声色に、心音が一度波打った。 「……それを差し引いても、ここではあまり騒ぐなよ。クランに嗅ぎ付けられたら面倒だ」 「クラン……図書委員長の、ことですか?」 「ああ。実は、読書(これ)は暇潰しの暇潰しだ。今日はクランに私用があって図書館(ココ)に来たわけだが、どうやら入れ違いになったらしい。クランは現在逃亡中で、三年の図書委員が懸命に行方を探し回っている」  クランとは『役職持ち』の一角、図書委員の長を務める三年Sクラスの生徒、フィン・ベーヴェルシュタム・クラン先輩のことだ。  名前から分かる通り外国人で、二年前この学園に来た留学生なのだそう。外見はまさに白馬の王子様といった風貌で、とても綺麗なお顔をしている。  しかしそれ以上に、異文化ということを考慮しても、変わり者で有名な先輩。  会議などで面識はあれどマンツーマンで接したことがないので表面的な人物像しか知らないが、図書委員長が図書館から逃亡とは戴けない。 「でしたら、クラン先輩がここを嗅ぎ付けてくれた方が先輩としては都合がいいのでは? どこを逃亡中かは存じ上げませんが、志紀本先輩が現在ここにいることは遅かれ早かれ生徒に伝わりますよ」 「……いや、今日はやめておく」 「? どうかされたんですか?」 「……。」  せっかく図書館まで来たのに。同じSクラスなのにこうしてわざわざ個人的に訪ねるくらいには、重要な話なんじゃないのか?  首を緩く傾げて問うと、先輩は何故か無言になった。不自然な間が開く。視線は俺に向いていた。  きょとんとする。  なんだろう…………あ、俺には聞かせられない内容、とか? 「勿論、クラン先輩が来られた際には私は席を外しますよ? 何でしたら今すぐにでも、」 「いいや、気にしなくていい。別に今日でなくとも、いつでも済ませられる用事だ。それより……」 「、ぁ……っ、なにを、っ」  会話の流れに乗じてお膝元から離れようと腰を上げかけたその時、前屈みになった俺の上半身の、ベストの隙間から胸ポケットへと先輩の指がするりと侵入してきて、ゾクリと肌が粟立った。  薄いブラウス越しにスッと掠められた左胸が、遅れてじわじわと妙な痺れをきたす。  反射的に後退りした際にスツールの脚を軽く蹴ってしまったらしく、床と擦れながら数十センチほどスツールが飛び退く。  倒しまではしなかったが、静かな図書館に不似合いな大きな音を立ててしまった。  志紀本先輩は俺の反応に一瞥をくれただけで特に何も言わず、俺の胸ポケットからまんまと抜き取った紙に目を落とす。  課題用にと選んだ蔵書の収納場所を記された地図だ。  と、というか、勝手に他人(ひと)の胸元に指を突っ込んで探るなんて……!  そして俺もいちいち過剰な反応するな……! 「今度は俺がお前の用事に付き合おう。この参考書を探せばいいんだな」 「え、結構で、」 「そうか」 「あっ嘘です嘘、だから地図を処分しようとしないで下さい!」 「こっちだ。ついてこい」 「~~~、くぅぅ……!」  俺の抗議は全部無視らしい。悔しさに握り拳を作る。  地図の一枚取られたところでまた検索システムを使って発行すれば済むはなしなのだが、二度手間を取るのは癪だし、実のところ地図があると言えど造りが入り組んでいてあっさり探し出せそうになかったので、ここは大人しく先輩のあとを追うことにした。  

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