241 / 442
14
* * *
控え室に戻ってすぐ、バスケット内のノアを解放してやった。
よく我慢できたな、との意味合いをこめて頭を撫で、ご褒美に値の張るミルクも与えておいた。
夢中で受け皿に頭を突っ込むノアを鏡越しに見守りつつ、ドレッサーの前に立つ自分と向き合う。
ああ、疲れた。すごく。
一人になった途端に押し寄せる倦怠感。
鏡に映る自分の顔にはまだ、疲労は見えない。いいや、見せないようにと、痩せ我慢をしているだけだ。
「ふー……、はあ……」
立ち続けるのも辛くなり、ドレッサーに両手をついて体重を預けた。鏡にこつんとおでこがあたる。冷えた表面がきもちいい。
仕事疲れもあるけれど、今は気疲れが大きい。視線慣れしてるとは言っても、やはり根っからの庶民が一年と少しで適応できる空間ではなかった。
佇まいや礼儀作法は、去年のスパルタ指導で最低限は身体に覚え込まされたものの、本物のお坊ちゃまたちとは年期が違う。
富裕層と一般庶民。そこにはどうやっても覆せない生まれという名の格差がある。
金持ち連中を妬ましいとは思わないけれど、無理して朱に交わろうと考えるほど、愚かでもない。
だから、一般庶民である俺の将来を学園基準のモノサシで測られたって困るのだ。
ここを卒業したら、また、ありふれた日常に帰るだけ。
「───お疲れさん」
「、……!」
完全に気を抜いていた今、不意に声をかけられて素直に驚く。その弾みで鏡とおでこがごつんとぶつかった。いたい。
振り向いた先には、コンコン、と取って付けたように今頃ノックをする会長の姿。
なんだバ会長か。警戒して損した。
ノアが出ていかないようすばやく扉を閉めた会長がリボンタイをしゅるりと外し、第一釦を外す。その仕草をなんとなく見ていると、会長が俺に気づいた。
「……。誘ってんのか?」
「どうしてそうなるんでしょうこの人は」
「相手の視点に立ってよく考えてもみろ。密室で、日頃は露出を嫌う禁欲的な相手が、タイを外した状態で目の前にいる。お前ならどうする?」
「無駄に絡まずそっとしておく」
「つまんねえ回答だな。誤解だってんなら早くタイをしろ」
「手元にあればの話ですがね。この城、どうやらリボン泥棒が出るみたいで」
「ああ? 誰に盗られた?」
「……夜に?」
「何の比喩だよ」
「夜風に」
「窓から落としたのか。そういえばあの生地、」
「そ、そんなことより、会長のタイがご無事で何よりです」
「骨のありそうなヤツがいなかったもんで」
どうやら会長に媚び諂っていた包囲網のなかに神宮サマのお眼鏡にかなう生徒はいなかったらしい。アッチのパイプはほいほい連結するくせにそちらに関してはお堅いようで(下ネタ失礼)。
ゆるゆると雑談を続けながら、カップボードから二人分のティーセットを取り出した。
なにか甘いもの………ミルクティーにしよう。ホットがいい。
あ、でも会長、甘いの苦手だった。まあいっか。
「砂糖は要ります?」
「……わざとだろ」
「何のことでしょう」
「先輩をもっと労ろうって気はねえのか」
「労るに値する相手なら喜んで」
「そろそろ上下関係の何たるかを教えてやる。表に出るかベッドに入れ」
「なんでその二択なんですか。特に後者」
「″上下″関係っつってんだろ」
「……即刻、表に出て下さい。これ以上同じ部屋にいたらノアに発情期が移る」
「ノアも光栄だろうさ」
「その自信はどこから?」
「今夜俺の下に来たら分かる」
「そんな上下関係はお断りします」
「それなら上に乗せてやろうか」
「上か下かの問題じゃないんですよこの万年発情期、」
“ なぅう ”
おまいら落ち着けよ、とばかりに遮った猫の鳴き声を合図に、二人そろって押し黙る。
いやはや、お見苦しいところを。
ともだちにシェアしよう!