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「オニーサンは、優しくて、賢いね」
わりとすぐ傍からかけられた声にぎくりと身を固くする。無人の廊下にも関わらず、気配というものが一切なかった。
いつの間に、ここに。
じり、と壁側に足を後退させ、逆光となった相手を注意深く窺う。
この声、この口調……さっきの。
「相手のことをよく見てる。淡々としているように見えて、頭では色んなことを考えてる。俺のこともしっかり警戒して、見極めようとしてたよね。揺さぶってもなかなか響いてくれないし」
「……その対応に何か不満でも?」
「不満というか、妬けちゃうかなあ。裏表がないああいうタイプのコには、オニーサンもちゃあんと優しさを返してあげるんだもんね」
そう言って親指を向けた先には、佐々部さんに頭を撫でられて嬉しそうに笑う篠崎くんの姿。
つられてそちらを見ていれば、顔に暗い影がかかった。茜色が遮られ、宵闇の気配がほのかに香る。また、微かに笑う声。
「でも本当は、ちょっと安心してるんじゃない? さっきのやり取り、オニーサンが理屈的にも正しいと思うけど、オニーサン自身の本音としても、必要以上に介入したくなかった。傍観者としての立ち位置から動きたくなかった。……違う?」
一歩、二歩、後ろに下がったのは臆したからではなく、図星だったからでもなく、距離が近かったせいだ。
中学生を相手に、何で俺が。
昼間見た、人好きしそうな笑顔は見る影もない。同じ笑みの形をかたどっていても、こんなのは絶対に違う。
向こうが一歩、踏み込んできた。俺の一歩より歩幅が大きい。
反射的にもう二、三歩下がると、背中にこつんと何かがぶつかった。壁だ。それでもまだ抜けられない影に挑むように、思いきって顔を上げる。
「どう、思われようと、あなたには関係な、ん、」
そう言いかけた唇を、相手の親指が、掠めた。
下から掬い上げるように俺の顎を掴んだ手。わざとらしく俺の言葉を遮った無遠慮な指の先が、ふに、と下唇のラインを柔く押してはなぞる。
そっぽを向いて振り払った。
夏なのに冷たい指先。切り揃えられた爪が肌に食い込んだ、その感触がやけに残る。
「関係ない、か。なるほどね。オニーサンはそうやって、他人との間に予防線を張るんだ?」
こてんと首を傾げる幼い仕草。
悪戯っこのような無邪気さと、火遊びを知っている男の顔。その二面性。にっこりかたどられる人の良い笑みは愛嬌と色気を内包し、計算され尽くした絶妙な危うさを作り出す。
女が相手なら瞬く間に捕らわれていただろう、その顔が。声が。視線が。
手、が。
現在向けられている相手は、女性ではなく。
「いいね、そのスタンス。そうやって一歩引いたところから他人を見て、自分で自分を蚊帳の外に追いやることで、自分を護る。冷静で、ガードが高くて、そう易々とは堕落してくれなさそうだ。
………ますます、欲しいなあ」
ぺた、と右横の壁に手が突かれた。
身長がほとんど変わらないせいで、目線の高さはほぼ同じ。
にも関わらず自分よりずっとずっと大きな獣に囲われているような錯覚を起こすのは何故だろう。
至近距離に迫る挑戦的な眼差し。
年下の甘さを含んだ表情から、一転。
「ねえ、あんたさ。他人に対して『必死』になったコト、ないだろ」
───瞠目した。
一瞬ですべてが真っ白になって、その隙を、つかれた。
次の瞬間、ただでさえ近かった距離をさらに縮めたのは、薄く笑みを刻んだ男。俺からチラリとも逸らされない、好奇心を煮詰めた眼差し。
そのひとみの中で、息を呑んだ俺自身の顔が俺を見つめ返している。
「……いいや。なりたくない、ってのが、正しいかな?」
睦言を囁くような男の声。オトコの顔。
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