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「……!」  ぱし、と寄せられた男の唇を左手で受け止めた。文字通り目と鼻の先に迫った顔を、毛を逆立てた動物のように睨みあげる。  ぱちぱちと瞬いた目が無言で俺を見下ろし、笑ったように見えた。  それはもう愉しそうに。  悪ふざけもいい加減になさい、と窘めようとした言葉は、手のひらの内側を這った悍《おぞ》ましい感触のせいで喉の奥に引っ込んでいった。代わりにひゅっと鋭い悲鳴があがる。 「ひ……っ……、ッ、!?」  舐められ、た。  それに気づいて咄嗟に退こうとした手首はしかしながらがっちりと掴まれてしまい、自分の左手が、男の薄い唇と舌によって丹念に愛撫される様を、眼前で見せつけられる。  伏せられた男の瞼。ちろちろと、皮膚の薄い手のひらの中心を丹念に舌先で()ぶられるほど、嫌悪感に反して指先がピクピクと痺れてゆく。他人の舌の感触が気持ち悪くて仕方がないのに、身体はいちいち向こうが喜びそうな反応ばかり。  ひどい、辱しめだった。  羞恥なのか屈辱なのかわからない、とにかく逃げ出したい気持ちでいっぱいで、顔に熱が集まった。  俺の反応に手応えを覚えた男の唇が、不敵に弧を描いている。 「……俺はね。そういうタイプの人間を、人が変わったみてえに俺に夢中にさせるコトが、ダイスキなの」 「手を、はなし、……っつ」 「その澄ましたキレイな顔が、俺のためだけにぐちゃぐちゃに歪むところを見てみたい」  手のひらにあたる呼気にさえ、ぞわりと肌が粟立った。  ちゅ、ちう、と、指の股に移動した柔らかい唇が今度は肌を甘く吸う。痛痒さにいちいち顕著な反応をしてしまう己の手が嫌だった。  目の前の顔を引っ掻いてしまえばいい。  そうすれば向こうもさすがに怯むだろうと思っていても、目の前でちらつく男の太い指輪が、言い知れぬ不安を俺に与えて何も動けないでいる。  かり、と指先を軽く噛まれて、ヒク、と喉が震えたと同時に、相手の伏せられた瞼が開いた。  その瞳が宿すのは、純然なる興味関心。  揶揄混じりの眼差しに、相手の酷薄さが透けて見える。 「ねえ、だから、大人しく俺に口説かれてよ。オニーサン」  学園の外だからと、完全にその可能性を除外していた。  「口説かれて」、いたのか。ただの軽口などではなく、はじめからずっと、正しい意味で。  相手の影で視界が一層暗さと狭さを増した。  ほんの十数メートル先、角を折れた客席側では、篠崎くんと佐々部さんのハツラツとした声が聞こえる。  距離はさほど離れていない。  悲鳴のひとつでもあげればきっと、訝しげに思って彼らはこちらの様子を見に来てくれるだろう。  そう、思うのに。頭ではわかるのに。 「……そんなにこわがらないで」  この指輪は、凶器だ。  俺の指と指のあいだに差し込んで絡めとった男の無骨な指。  誰のものとも知れない乾いた血液が残る冷たく硬い無機物が触れ、悪寒とも恐怖ともつかない鳥肌が身体の外へと這い出てくる。  こいつは危ない。  第六感が警鐘を鳴らす。  インターハイの熱気が未だに残るこの会場の中で、けれどここだけ空気が違う。籠もる熱の質が違う。 「食べちゃうよ」  そのコトバを聞き、一瞬で冷えきった俺の目を覗き込み、年下の男は無邪気な顔で嗤った。  甘いルックスを裏切らない、柔く綻ぶ軽薄な唇。  無人の廊下でくすりと笑った吐息が、膜で覆った気泡のようにぼんやりと耳に届き、そしてぱちんと弾けた。  

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