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「今日は、俺が昔飼っていた犬が死んだ日だ」
「………、は…あ……? いぬ?」
沈黙、からの想定外な情報を脳内で処理しきれず、間が抜けた声が出る。
……犬? なんでこのタイミングで犬?
俺の中では今、先輩のお袋さんのことを前提に謝罪していたつもり、だったんだけど。
反応に困る俺を見る先輩は、しかしながらからかっているようにも嘘を吐いているようにも見えず。むしろ、いつもよりほんの少し、堅い声。だからむやみに話の腰を折ってはならないと、俺の理性が言っている。
「……。ついで に言えば、実母が鬼籍に入った日でも、ある」
─────『ついで』?
その単語が、花火の音よりもずっと鮮明に耳に残った。
淀みなく淡々と打ち明ける先輩の整った顔には一切の表情がない。何を考えているのか解らず、けれどこちらを射抜く銀灰の目と沈黙に耐えかねて思わず顔を背けた。
何を思って、そんな言葉を口にしているんだろう。
明らかに身内の死を軽んじるような物言い。俺の失言をまったく意に介していなかったのも当然。時間が解決したとか……きっと、そういう次元では、ない。
このひとの場合、うっかり口を滑らせたとも考えにくい。確実に狙って言ってる。
俺が困惑すると想定した上で、───俺の返事 を、待っている。
もどかしさに唇を噛んだ。
………こんなとき、適切な言葉が見つからない自分が、歯痒い。
「そんな顔をされるとは思わなかった」
「え……?」
「忘れてくれ」
顔……?
ベタにも頬に手をあてて確かめてみる。顔の筋肉の強張りが掌から伝わってきた。
お袋さんとは不仲だったのか、何か込み入った事情でもあったのか、俺が非難することを期待しているのか、それとも呆れ返れば満足するのか。想像を巡らせることならいくらでもできるけれど、他人の、この人の事情に安易な気持ちで踏み込みたくないという意識が、自分自身を押し留める。
こういうとき……物語の真っ当な"主人公"なら、相手の心に響くような適切なアドバイスをして、相手を確実に良い方向へと向かわせることができたのかもしれない。
けれど俺は、多分、"王道 "には向いてない。
「支倉、」
「………ハイ」
「学園は、楽しいか?」
俯きがちになっていた顔をパッと上げれば、先輩の唇は薄く笑っていた。
唐突な話題の転換はいっそあからさまで、暗にこの話は終いだとシャッターを下ろされたも同然だ。
”忘れてくれ”という言葉どおり、先ほどの発言を無かったことにするつもりなのだろう。良かった、と胸裡で思った。本人が発言の取り消しを望むなら、俺も返事 を出さなくていい。
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