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俺が彼の存在を知ったのは、遡ること去年の5月。
黒木さんは表向きはウェイター、しかしシェフとしての腕前もその道のエリートを揃えた食堂スタッフの中でも群を抜くとの評価を受けており、けれどなかなか手料理を人に振る舞おうとしない気まぐれなシェフ、しかもイケメン…───なので、生徒のあいだでけっこう有名な人である。
当時、今とは比較にならないほど周囲とのあいだに強固な壁を作っていた俺は、知ろうともしなかったけど。
去年のとある日、志紀本先輩に無理やり手を引かれるかたちで食堂に連れていかれた時が初対面で、それからちょこちょこ食育され、二学期には俺が食堂の短期アルバイトを始めたことでさらに交流を深めた相手。
俺にとって、学園内でも指折りの恩人にあたる。
「この前マフィンくれたでしょ。あんがとね」
「いえいえ、たいしたものでは。……どうでした?」
「んー……30点?」
「う゛っっっスイマセンッッ」
「いーよ、くぅちゃんの手製なら何だって嬉しい」
ま、まあ、菓子作り初心者でありながら凄腕シェフから30点貰えただけ健闘した方かな……。
手作りを渡す相手としてハードルが高すぎたのは否めないけど、嬉しいと言ってもらえたなら渡した甲斐もある。
そんな雑談の最中にも、応接室のテーブルの上には洒落たテーブルクロスが敷かれ、さらに昼食が並べられていく。芳ばしい焼きたてのパンの香りが空っぽの腹を刺激した。
本日のランチメニューはローストビーフとバジルを挟んだこんがりきつね色のホットサンドと、夏野菜をふんだんに使ったラタトゥイユスープ。
くきゅる、と唸りはじめた腹をそっと抑えると、黒木さんは機嫌良さげににーっこり笑った。
「いただきます」
「どーぞ」
おしぼりで手を入念に拭いて合掌すると、黒木さんがさらに笑みを深めた。
まずはお冷やを飲んで咥内の熱を冷まし、紙ナプキンに挟んだホットサンドをぱくりとひとくち。パリ、と焼けたパンのいい音がして、そのまま肉厚なローストビーフまで頬張った。
パンと肉の旨味が口いっぱいに広がる。
空腹時だからか、それともやはり作り手の卓越した技能ゆえか、格別に旨いと感じる。堪らず「おいしい」と呟くと、黒木さんの機嫌がまた良くなった。
スープの方も期待を裏切らないほど絶品で、ひたすら幸せを噛み締める。黒木さんの料理をいただくたびに思うことはただひとつ。
「嫁に欲しい……」
「それは光栄。主導権を握らせてくれんだったら、いつでも行ってやるよ」
「………。」
「あ、困ってる困ってる。若いねえ」
自称ノンケのくせにこうして俺のことをからかってくることさえ差し引けば、わりと本気で一生食育されたいくらいには胃袋をしっかり掴まれてしまっている。
黒木さんの冗談をなんとか躱してランチを食べ進め、食べれば食べるほど食べ終わってしまう勿体なさと板挟みになる頃合いで、ふわりとコーヒーの香りが鼻腔を掠めた。
「コレ、マフィンのお礼ね。デザートの紅茶プリンと、食後のコーヒー」
「……!!!」
「意外と甘党だよな、くぅちゃんは。立食パーティのときも俺が作ったタルト食ってたでしょ?」
「タルトもプリンもさいこうです……」
食後のブレイクタイムがやってまいりました。語彙がスカスカになりながらも多幸感にひたる。
プリンがお口のなかで溶けます……。
久々にゆっくり食事を楽しんで、ゆっくり休憩時間をとって、色んな意味で満たされたように思う。
食器を下げて仕事に戻る黒木さんを見送ったタイミングで、昼休憩の終わりを知らせる長いチャイムが鳴り響いた。
仕事の進捗状況は概ね順調なので、5限目は授業を受けられそうだ。教室に戻り、ちらりと隣席を見てから、革張りの自席の椅子に座る。
デスクの下、携帯画面をタップした。メールフォルダを開き、更新ボタンを押す。
『新着メールはありません』
ふう、と細くため息を吐いて、携帯を鞄にしまった。
七夕祭りで衝動買いした光るブレスレットのつるりとした表面を、ポケットの中で手持ち無沙汰にゆっくりと撫でる。
もう一度隣席を見て、勝手ながら不貞腐れた顔つきになってしまうことが自分でもわかった。
………あのサボり魔め。
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