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「…、っとォ……。随分と、足癖が悪いのだな。流石に危うかったぞ、今のは」  荒い呼吸音としばしの静寂。  身体が密着する直前に窮鼠猫を噛む思いで咄嗟に身体を捻って繰り出した右蹴りは、不意打ちだったにも関わらず片手一本で受け止められてしまった。  無理な体勢がたたって、威力が損なわれたのも敗因としては大きい。  決死の反撃を止められた以上、向こうも相応の警戒心を持ってそれに備えるだろう。もう同じ手は使えない。  上体を起こした二葉先輩から離れるためにずりずりと上に逃げるものの、腰の上へと乗り上げられ、身動きを制限される。  キッと鋭く睨みあげた先、下弦の月を彷彿とさせる薄笑いがそこにはあった。 「ああ……その、(かんばせ)。良いな」 「ッ、は……?」 「一度は崩してみたいと思うておったのだ。いつものその、取り澄ました表情(カオ)を」  うっそりと、嗤う。  恍惚、という言葉がぴたりと当てはまる蟲惑的なひとみに見据えられ、ぶわりと肌が総毛立った。冷たい汗が背中を冷やす。  これはもう、知らない人だ。俺が知らない男の(かお)だ。 「っ、、や、め」  伸びてきた蜘蛛のような十指に、両の手首を絡め取られる。抵抗も虚しく、ひとまとめに束ねられたそれらが頭上でがっちり掴み上げられた。  拘束する二葉先輩の手は片方だけだ。体格に大きく差があるわけじゃない。身長だって、大幅に違うわけじゃない。  それなのに、どうして。  どうして────動けない。 「、……ッ二葉、先輩、落ち着いて下さい。急にどうしたんですか……何か、礼を欠いたなら、お詫び致しますから」  悪足掻きとばかりに痛切に訴えた俺は、(おびや)かされる前の、命乞いをする非捕食者と同じだ。  とにかく理由を捜していた。  二葉先輩がこの暴挙に至るほどの、何らかの原因が自分にあったのではないかと。  それは俺にとって、同性から組み敷かれているこの状況が、あまりにも「非常識」だったから。それなりの理由があるのだろうと。無いわけがないと。 「……”急に”? 何を申す。我はだいぶ前に通告しただろう」  しかし学園の「常識」に則った二葉先輩に言わせれば、ただの悪ふざけに理由付けをすること自体が無意味で、お門違いなのだと。  ほんとうの意味で理解するのが、あまりにも遅すぎた。 「『他人(あだびと)なんぞに喰わせるくらいなら我が真っ先に喰ろうてやる』と。……そうかそうか、もう、忘れたか」  "……危機管理能力の、程度が知れるな。"  通常なら囁きにも満たない声が、深々と耳に突き刺さる。  学園に入学して一年目の頃は、四六時中と言っていいほど持っていた危機感。全方向に張り巡らせていた警戒心。  あの感覚を、俺はいつから忘れてしまったのだろう。  それとも本当はこころのどこかで、慢心していたのだろうか。  自分では気づけていなかっただけで、生徒会役員という学園最高位の立場に。  中間考査前の図書館で、志紀本先輩から受けた『忠告』を、どうしてこのタイミングになって思い出すのだろう。  ───『生徒会副会長という立場を担うなら、誰が相手だろうと、どんな状況だろうと、もっと上手に躱してみせろ。この先もしも今のように何者かに迫られた時、一体どう対処するつもりだ?』  ───『……ほら。そうやって睨む』  ───『ただ、相手によっては逆効果だと、学べ』 * * *

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