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第13話
ライの家に着いても、希望は相変わらず恋の病に冒されていた。
ここに来るまでの間に、希望が正気に戻りかけた瞬間は何度かあった。だが、ライの姿を見る度に恋の雷が頭から足の先までを駆け抜けて、正気を奪い去ってしまうのだ。
希望は今もうっとりと瞳を潤ませ、頬を染めてライを見つめている。いつもよりもぴったりくっついて、ライはなんて邪魔な男だと思った。
やや乱暴な動作で引き剥がしてみても、抗議をしてくることはなく、ふにゃふにゃと表情を緩めている。ライは首を傾げつつも、希望の行動について考え過ぎるのは精神衛生上よろしくないことだとわかっていたので、考えるのはやめた。
「あっ! まって!」
ライがジャケットを脱ごうとしたので、希望はぎゅっと抱きついて阻止した。ライが眉を寄せて、煩わしそうに希望を見下ろす。
希望は怯むことなく、瞳を輝かせてライを見上げていた。
「ジャケット脱がないで! そのまま勉強教えて!」
「はあ?」
「おねがい、ね? いいでしょ?」
うるうるきらきら、と瞳を輝かせて、希望は訴える。
タートルネックにジャケットを組み合わせたライの姿は珍しい。希望はとっても胸がときめいた。
何より、知的さと上品さが家庭教師っぽくてすごくいい。先生、って感じがする。
是非ともこの姿で勉強を教えてほしかった。勉強も捗るし、恋のときめきで心身ともに元気になるはずだ。
希望がじっとライを見つめていると、ライは首を傾げつつも、ジャケットは脱がなかった。ライはそのまま椅子に座って、呆れたようにため息をついている。
「で、始めんの?」
「その前に!」
「?」
興奮冷めやらぬ希望は、自分の鞄をガサゴソと漁った。
ライが眺めていると、目的の何かを見つけたようだ。振り向いて、にこにこと満面の笑みでライを見つめている。
「これつけてみて!」
希望が差し出したのは黒縁の眼鏡だった。時々希望がかけている、度の入っていない伊達眼鏡だ。希望もライも、本来眼鏡が必要な視力ではない。
「……」
ライは眼鏡を見た後に、希望へと視線を向けた。じっと見つめて、重ささえ感じそうな視線だったが、希望はにこにこして眼鏡を差し出したままだ。引っ込める気は無さそうだと、ライは悟る。
この一連の、希望の『おねがい』の意味や目的は全くわからなかったが、希望が満足しなければ終わらないということはわかった。
ライは眼鏡を受け取った。さっさと希望の『おねがい』を終わらせて、あとで何倍にもして借りを返してもらえば済む話だと思ったからだ。
「……で?」
ライが眼鏡をかけて希望を見る。
希望は大袈裟な動作で目眩を起こしたように、ぐらんっ、と揺れた。
かっ……! ……かっこいい~~♡♡♡
希望の瞳は、ライが僅かに顔を顰めるほどきらきら、ぴかぴか、と光り輝き、いつも以上に眩しい。直で見るのは目に良くなさそうな煌めきが、チカチカとライに当たる。
「やっぱりライさん似合う~♡今の服とも合ってるよ~♡かっこいい♡ひゃー♡好き♡♡♡」
「……」
「あっ、写真撮っていい?!」
ライが答える前に、希望は自分のスマートフォンで何枚も、いろんな角度でライを撮影した。写真を見てはにやけ、実物を見てははしゃぎ、でれでれととろけそうな笑顔を見せている。
「はぁーん♡ライさんかっこいい♡ねえ、これ待ち受けにしていーい?」
希望がライを見る度、瞳から溢れる煌めく星々がライにぱちぱちっ、と当たって砕け散った。希望はライが先程から一言も発していないことにも気づかず、にこにこと笑って、一人でぺらぺらと喋っている。
「今度から家庭教師の時はその感じで……あっだめだ、かっこよすぎて集中できなぁーい♡どーしよー♡えへへー♡」
希望はライの隣に座って、一人できゃっきゃとはしゃいでいた。にこにこ、でれでれ、と楽しそうに笑って、頬を染め、何故か照れている。
ことり、と静かな音がした。
希望が音の方へ視線を向けると、ライが眼鏡をテーブルに置いている。
あ……、もう外しちゃったんだ……。
あーあ、もうちょっと見てたかっ……
希望はがっかりしながらライへと視線を向けた。
「……」
「……」
希望はライと目があった。
そして、凍り付いた。
ライは希望をじっと見ていた。
その目は、かつてないほど鋭く、冷くて、真っ暗だ。底知れぬ暗闇は何の感情も伺わせない。
しかし、深い闇の奥から、ゆっくりと怪物が近づいてくる気配だけは感じ取れた。
希望の背中を、再び氷の精霊が撫でていく。
「……あっ…………」
希望は、これ以上怪物を刺激しないように、ゆっくりと姿勢を正した。
ライはただただ希望を見つめてる。希望は俯いたままじっとしていた。
「……ずいぶん楽しそうだなぁダーリン?」
希望には永遠に思えた数秒ほどの沈黙の後、ライがゆっくりと口を開いた。
優しく柔らかな声に、希望は震える。
「……すいません…ハニーの魅力に浮かれて……調子に乗ってしまいました……」
「へぇー、そう」
どうでも良さそうにライが答える。それだけで、希望はビクッと震えてしまった。
「それで? お勉強はもう諦めたのか?」
「い、いえ、そんなことは……」
「俺はお前が合格しようが、どこへ行こうがどうでもいいんだけどさぁ」
希望の答えを遮って、僅かに苛立ちを滲ませた声に、希望は身体が強張った。
ライが俯いている希望を覗きこむように身体を傾け、距離を縮める。距離とともに、希望の心臓もぎゅうっと縮まった。
「もしかして、最近集中力は欠けてんのは俺のせい?」
「い、いいえ……」
「ミスが多くなってんのも、俺にお仕置きされたくてわざやってる?」
「ち、ちが……! うぅっ……! ご、ごめんなさぁい!」
圧力に耐えきれなくて希望は顔をあげた。
「勉強もっと頑張るからぁ……! もうはしゃいだりしないよぉ! だからゆるしてぇ……?」
希望はうるうると潤んだ瞳で、ふるふると小兎のように震えている。顔の前でぎゅっと両手を組んで、縋るようにライを見つめる。目尻には涙が滲んで、揺れる瞳は憐れみを誘うだろう。
ライじゃなければ。
「……そうだなぁ」
しばらく希望を眺めていたライが柔らかな笑顔を見せる。希望はますます泣きそうになった。一㎜たりとも許してくれそうな気配がない。
「じゃあ、お前がもっと頑張れるような条件つけてあげようか」
「じょ、じょうけん……?」
「そう」
ライが希望の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。今にも零れそうな涙を指先でそっと拭った。希望は震えながら大人しく受け入れている。
「そろそろご褒美とお仕置きだけじゃつまんないだろ?」
「……っ」
そんなことは決してないけれど、希望はぎゅっと唇を結んで黙っていた。
ライは希望の顎に指を添えて、少しだけ顔をあげさせる。ライは優しげな笑みを浮かべて、楽しそうに目を細めていた。
「お前が無事合格できたら、進学。高校から大学に変わるだけ。今まで通り。ここまではわかる?」
「……?」
希望は戸惑いながらも、コクン、と小さく頷いた。物を知らないこどもに優しく言い聞かせるような言い方が、何故か怖い。
「でも合格できなかったら」
ギクッ、と希望が震えた。
お仕置きより酷いことってなんだろう、と考えると怖くて震えが止められない。耐えるように拳をぎゅっと握りしめ、ライの言葉を待った。
「……もし今年合格できなかったら、今度はもっとしっかり教えてあげる」
「……え?」
震えていた希望は、きょとん、と目を丸くした。
てっきりお仕置きのような酷いことをされるのだと思っていたので、予想外の申し出だった。希望は少しだけほっとした。
「どうしてもいきたい大学だもんな? もう一年頑張るつもりだろ?」
「う、うん……」
「でも、今年合格できなかったとしたら俺の教え方にも問題があったと思うんだよなぁ。責任感じるかも」
「……」
し、白々しい!
また心にもないこと言ってる!
希望はまた、ぶるりと震えた。平気な顔して心にもないことをぺらぺらと、なんて悪い男だ、と背筋が震えてしまう。
「だから今度の一年は、もっと丁寧に、教えてあげる」
「あ、ありがとう……で、でもおれ」
「ああ、勉強もそうだけど」
「……?」
希望は「今年頑張って合格してみせるよ」と伝えようといたが、遮られてしまった。希望は首を傾げて、ライを見つめた。
「お前はずっとここにいればいい。帰らなくていいよ」
ライは相変わらず優しく目を細めていた。頬に触れている手も、丁寧に希望を撫でている。
「そうしたら、いつでも勉強教えてやれるし、何でもしてやれる。ぜんぶ面倒見てやるから、大丈夫。仕事もこのまま休んでおけばいいよ。お前が勉強にだけ集中できるように、他のこと全部、忘れられるようにしてやる。……どうする?」
ライの声が、優しく甘く、低く響く。
希望が目を見開いたままライを見つめていた。
「合格して進学か、落ちて俺に飼われるか、選べ」
「ひっ」
希望はようやく気付く。
ライの暗い目の奥にいた怪物は、すでに目の前にいた。
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