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episode5. 誘惑(1)
「なぁ、腹減らねえ? 次の信号過ぎたところにあるファミレス、あそこでいいよ。飯食ってこうぜ」
そう言うと、運転席の男は驚いたようにして振り返った。
イエスでもなければノーでもない、しばし待っても無言のままの彼に、少しの苛立ちが過ぎる。
「何――? この後、何か用でもあんの?」
不機嫌をそのままに、ぶっきらぼうにそう言い放てば、慌てたようにして車を左車線に寄せる。
「いえ、特に用事はないんで……そこのファミレスでいいんですね?」
「ああ」
ようやくと返ってきた同意の言葉に、ホッとする気持ちを押し隠して平静を装う。生真面目な表情で狭い駐車場に車を入れる彼の運転は見事なものだ。半袖のシャツから垣間見えている腕は少し陽に焼けていて男らしい。自らの色白のそれとは比べものにならないくらい筋肉も張っていて、実際羨ましいくらいだ。
「すっげ、ドンピシャじゃん。運転上手いのな?」
チラリと上目遣いで彼を見つめ、褒めそやせば、僅かに染まった頬に心臓を鷲掴みにされたような気分に陥った。
午後の三時半過ぎ、この時間の店内は比較的空いていて、その男は眺めの良さそうな窓際の広いシートを選んで、上座に当たる席を勧めてよこす。そんな彼は対面に腰掛けると、メニュー表を開いてこちらへと向けた。
「何、食います?」
僅かに小首を傾げてそう問う仕草の節々に、相当気を遣っているのが見て取れる。それもそのはず、彼は年齢的にも一つ年下で、仕事の上でもこちらを立てなければならない立場だからだ。他人行儀な敬語が今ひとつ気に入らないが、致し方ないというところか。
「ん、俺はパスタ。お前は?」
そう訊いてやると、
「……じゃあ、俺もそれで」
いつまでも遠慮がちな姿勢を崩さない彼に、歯がゆい思いが募る。
「ふーん。ならさ、違う種類のにしねえ? そうすりゃ交換こして両方味見できるじゃん」
壁をぶち壊したくて、そう告げた。
ここ最近――一之宮紫月 は、とある一人の男のことが頭から離れずに、胸中を掻き乱されるような日々を送っていた。寝ても覚めても、ふと気が付けば知らずの内にその男のことを考えている。頬が火照り、心臓が脈打つのが早くなって落ち着かない。独りの時ならまだしも、人前でそれらを悟られまいと繕えば、視線が泳ぐ挙動不審を自覚して我に返る。
ふがいない思いに苛立ちがつのり、行き場を失った心はまるで深い沼に足を取られてもがいているような状態だった。
それがこの男――今、目の前でメニュー表をこちらに向けている鐘崎遼二 だ。
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