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episode5. 誘惑(3)

 そんな彼に自宅まで送ってもらうことになったのは、つい先程、氷川の事務所を訪れた際のことだった。先日撮影した分の写真が出来上がってきたというので、チェックがてら打ち合わせに行った帰りに、車で来ていた遼二に家まで送るようにと、氷川はそう命令した。明日、明後日は事務所も連休に入るし、この後は特に急ぎの仕事もないので、直帰していいから紫月を家まで送り届けるようにと言いつけたのだ。  遼二に興味を惹かれている紫月にとっては正直、心躍る話だった。だが、素直に喜びを表せるような性質でもない。ましてや、当の遼二を前にして、少なからず彼に魅かれていることを悟られたくもないわけだから、ついついそんな気持ちを隠さんと少々高飛車に出てしまうわけだった。  そんなこちらの思惑を知る由もないだろう彼は、緊張気味で態度も丁寧だ。 「他には何か取ります? サラダとか、つまみになりそうなグリルとか……?」  そんなふうに訊かれて、紫月は歯がゆさに舌打ちをしたい気分にさせられた。 「つまみを取ったら飲みたくなっちまう。お前、車だし、俺だけ飲むんじゃ悪りィだろ」  こう言えば、十中八九、『どうぞ、お構いなく』と返ってくるのは目に見えている。だからそれを言わせまいと、すかさずこう続けた。 「それとも……車置いて飲みに行くか?」  僅かに上目遣いに、心の内の内までえぐり出すべく、揺さぶるように挑発を掛けてみる。すると、思った通り驚いたふうに、漆黒の瞳をパチクリとさせながら固まってしまったのが分かった。 「なんてな――冗談だよ、冗談!」  軽く流すためにわざとおどけて見せつつ、内心では残念で堪らないと、焦れる想いを持て余す。これが、『いいですよ、じゃあ飲みに行きましょう!』と明るく二つ返事でも来ようものならどんなに舞い上がることか――こんなことを思う自体、既にどっぷりとこの男に囚われてしまっているようで、紫月は気重なため息を隠せなかった。  そんな思いを払拭したいが為か、ついつい態度がぶっきらぼうになってしまう。気分を変えるべく、全く別の話題へと振ることにした。 「ところでさ、お前もヒカちゃんみたいな写真家目指してるんだろ?」  ヒカちゃんというのは、遼二の師匠でもある氷川白夜のことだ。氷川だから”ヒカちゃん”――と、紫月はそんなあだ名で呼んでいるのだ。  その氷川の事務所のサイトには、所属しているカメラマンの撮った写真を載せているギャラリーのようなコンテンツがある。紫月もたまに覗くのだが、この遼二の作品がそこに掲載されているのを見たことがないので、気になって尋ねてみる。

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