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episode6. 飛べない蝶(3)

「まあ、とにかく――そんなわけなんで今日明日は予定が開いちまった。思い掛けない休暇というには語弊があるが、中津川も遼二もゆっくり休んでくれ」  氷川はそう言って苦笑した。  急なことで午後からの時間が空いた遼二は、帰宅の足ですぐさま紫月の自宅アパートへと向かった。動揺もあってアポイントすら取っていなかったが、幸いなことに紫月は在宅中ですぐに出てきてくれた。 「突然にすみません。実は俺――」  紫月は訪問に驚いたものの、すぐにその理由が分かったのだろう。少々苦笑気味ながらも、『入れよ』と言って遼二を部屋へと招き入れた。 「お前ン家と違って狭えけど、適当に座って」 「すみません、お邪魔します――」  紫月の家は、本人が言うように確かに広いとはいえない造りだ。先日、送迎をした時には部屋の中にまでは入らなかったので分からなかったが、ゲイ雑誌で絶大な人気を誇るトップモデルという印象からすると、正直なところちぐはぐなイメージを受けざるを得ない。部屋の狭さという点でもそうだが、置いてある家具や調度品からも質素というか、かなり簡素な感じを受ける。遼二は悪いと思いつつも不思議そうに室内を見渡してしまった。 「お前が淹れてくれたンと比べたら申し訳ねえようなインスタントだけど……さ。良かったら飲んで」  しばしぼうっとしながら突っ立ったままだった遼二は、コーヒーをトレーに乗せてきた紫月の声でハッと我に返った。  ダイニング用のテーブルらしきはなく、小さな丸い座卓の周囲にはラグが敷かれてあって、遼二は勧められるまま床へと腰を下ろした。 「すみません、お気を遣わせてしまって。いただきます」  出されたコーヒーに口をつける。例えインスタントでも紫月が淹れてくれたそれは温かくて美味しかった。  何故だろう、理由もなく胸が締め付けられるように苦しかった。紫月のイメージからして、豪華な部屋で自由奔放で我が侭放題、それこそ”オレ様”というような印象で雅やかに生活しているものと――勝手にそんな想像をしていた。だが実際はまるで違う。この簡素な部屋で、彼はたった独り、どんな思いで過ごしてきたのだろう。特集企画を降ろされた今の彼の立場が、より一層そんな思いに拍車を掛けるようだ。遼二は何を話してよいやら、しばし言葉に詰まったままうつむくしかできずにいた。  ギュッ――と、コーヒーカップを握り締めたまま、立ち上る湯気を見つめる。彼が自分の為に淹れてくれたコーヒー、その気持ちがうれしくて愛しくて堪らなかった。気を許せば涙が滲みそうだった。

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